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中国史人物伝

名実一致をめざし、王莽に抗った気骨の宰相 何武(前漢)(1) 揚州刺史

王莽は父を早くに喪ったため、不遇を託ったものの、

成帝の生母でおばの王太后に目をかけられて、大司馬に引き立てられた。

その後、成帝が崩じ、哀帝が帝位に即くと一旦失脚したが、

哀帝が崩じ、王太皇太后の手引きで復権を果たすと、幼少の平帝を擁立し、

丁寧かつ慎重な手つきでおのれの権勢を高めてゆき、ついに帝位へと昇りつめた。

その過程において、王莽は反対勢力を粛清した。

元始3年(3年)に数百人を誅した大獄で犠牲となった

何武(あざなは君公)(?-3)

は、廉潔を旨とし、宰相になると名実一致をめざして制度改革に取り組んだ。

そんなかれも、外戚の擡頭には抗いきれなかった。

中国史人物伝シリーズ

目次

頌 詩

何武は、蜀郡郫県の出身であった。
武帝のときに、蜀郡出身の司馬相如が賦を作って天下に名を馳せた。
その影響で、当時の蜀の人士のあいだで、詩賦の制作がさかんであった。
宣帝の治世になると、天下は平らぎ、四方の異民族が来朝して服従し、瑞祥まであらわれた。
益州刺史の王襄は、人民を教化しようとして、弁士の王褒に漢朝の徳を頌する詩を作らせた。
王褒はこれに応じ、『中和』、『楽職』、『宣布』という三篇の詩をつくった。
何武は十四、五のころ、王褒がつくったこれらの詩を習い歌った。
このとき、宣帝は学問に通じた異能の士を求めていた。
王褒や何武らは王襄に推薦されて、都長安に招かれ、
宣室(未央宮前殿の正室)において、宣帝の御前で王褒がつくった詩を歌った。
「これは盛徳の王者がすることで、われがこれに当たろうか」
宣帝はそう謙遜して、何武らに帛を下賜した。
(王褒は待詔に任じられ、のちに諫大夫に抜擢された。)

仕 官

何武は太学で学業を受け、『易』を修めると、射策甲科(上級官吏登用試験)に合格して
郎(皇帝の侍従官)となり、同じく射策の甲科に合格して郎になった翟方進と親交するようになった。
その後、何武は、光禄勳(近衛長官)から推挙されて、鄠県の令に遷任された。
しかし、法に坐して免職され、郷里に帰った。
何武の兄弟五人はみな郡吏になり、郡県の人びとはかれらを敬憚した。
何武の弟である何顕の家は、市場に戸籍があった。
農業を重んじた漢王朝は、商業に多くの規制をかけた。
その結果、商人として市場に戸籍がある家は、官吏になれなかった。
何顕の家はそれに反発して、地租を納めず、県がそれを肩代わりする、というのが常態化していた。
巿の嗇夫(徴税吏員)求商が何顕の家人を捕え辱めた。何顕は怒り、求商を中傷しようとした。
「わが家が納税や夫役の義務を怠っていたがゆえのこと。公事に奉じる吏人がいたってよいではないか」
何武はそういって、求商を太守に推挙した。州里の人びとはみな何武に心服した。

揚州刺史

その後、太僕(馬政担当大臣)の王音に推挙されて諫大夫を拝命し、揚州刺史(監察官)に遷任された。
何武が二千石(郡太守)や長吏(郡県の高官)を劾奏するさいには、いつも封緘せずに罪状を公表し、
罪に服する者には、その罪を減免して免職するのみにとどめたが、
罪に服さない者に対しては、法をきわめてこれを奏聞して罪に抵て、あるいは死に至らしめた。
九江太守の載聖は、
「大載」
と、称されたおじの戴徳とならんで、
「小載」
と、称される儒者であった。
しかし、素行が修まらず、法を犯したことも多かった。
前任の揚州刺史は、名声ある載聖にたいし、寛大であった。
しかし、何武はちがった。
官吏に廉潔を求めるかれは、刺史になると、州内を巡行して囚徒を記録し、
検挙すべき者があれば、郡に委嘱した。
「後進の書生に、何がわかろう」
そういって、載聖は委嘱を受けた事案をひとつも決裁しなかった。
何武は従事(刺史の佐官)に命じて載聖の罪を調べあげさせた。載聖は懼れて、みずから辞職した。
載聖は後に博士になると、朝廷で何武のことを悪し様にいった。
何武はそのことを耳にしても、けっして載聖の悪事を揚言しなかった。
その後、載聖の子とその賓客(食客)が群盗となり、捕らえられて廬江郡の獄に繋がれた。
——さすがに、死は免れまい。
載聖は、そうおもった。
ところが、何武は公正にこれを裁き、かれらを死罪にはしなかった。
それ以後、載聖はすっかり恐れいり、何武が上京すれば、必ず何武のもとを訪れて、恩を謝した。
何武は刺史を務めていたとき、二千石(郡太守)に罪があれば、時に応じて劾奏したが、
その他は賢愚を問わずいちように敬意をもって接した。
そのため、州内の郡国はそれぞれ太守や国相を重んじ、州内は平穏に治まった。
何武が州内を巡行する際には、まず学官(学校)におもむいて諸生(学生)に会い、かれらの学識を
試問してから伝舎(宿舎)にはいり、記録をみて墾田の頃畝(面積)ならびに五穀の良し悪しを調査した。
そうしてから、ようやく二千石(郡太守)に面会したのであった。

守法見憚

何武がまだ郡吏をしていたとき、太守の何寿に仕えた。
何武は何寿に高く評価され、同姓であったこともあり、厚遇された。
のちに何寿が大司農になると、その甥(兄の子)が廬江郡の役人になった。
何武が上計(監査報告)のために上京したとき、たまたま何寿の甥も長安にいた。
何寿は何武の弟である何顕と旧友の楊覆衆を招いて酒宴をもよおした。
宴たけなわになって、何寿は甥をみて、
「この子は揚州の役人なんじゃが、愚鈍ゆえ刺史から目をかけられておらん」
と、つぶやいた。何顕らはなはだ慚じいり、帰るなりこのことを何武に告げた。
「刺史は古の方伯にあたり、主上から委任された一州の表率(手本)であり、
その職務は善を進め悪を退けることにある。官吏の成績にすぐれたものがあり、
民間に隠逸の士(濁世を避けて野に隠遁している処士)があってはじめてこれを召見すべきであり、
私情で目をかけるようなことがあってはならない」
何武は厳然とそういった。
「そう仰せられましても」
何顕と楊覆衆が執要に請願してきたので、何武はやむなく何寿の甥を召見し卮酒(杯酒)を賜うた。
その年のうちに、廬江太守が何寿の甥を推挙した。

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