Blog ブログ

Blog

HOME//ブログ//季漢の顔回 晋朝で名卿と称された陳寿の兄弟子 文立(三国 蜀・西晋)

中国史人物伝

季漢の顔回 晋朝で名卿と称された陳寿の兄弟子 文立(三国 蜀・西晋)

秦から漢にかけて流刑地とされた

“蜀”

が人口に膾炙するようになったのは、

劉備玄徳がこの地を治めたことによる。

貧しい出自から一代で皇帝にまで成り上がった

『三国志』の英雄が築いた“理想郷”は、50年で滅んでしまった。

蜀漢を滅ぼしたのは、曹操の子孫が治める魏であった。

だが、その実権はすでに曹氏から重臣の司馬氏の手に移ってしまっており、

2年後、司馬炎が魏に代わって皇帝になり(武帝)、晋王朝を開いた。

晋で重んじられたのは、魏のころから司馬氏と婚姻関係を結んでいた名族ばかりであり、

被征服国家であった蜀漢の旧臣は、肩身を狭くした。

そんななか、蜀の大儒 譙周の弟子であった

文立(あざなは広休)

は、武帝に気に入られて顕官に昇り、陳寿ら後進の希望となった。

中国史人物伝シリーズ

蜀の大儒 譙周

目次

季漢の顔回

文立は巴郡臨江県出身で、若いときに蜀の太学に游学して譙周に師事し、
『毛詩』および『三礼』(周礼、礼記、儀礼)を修め、群書に通じた。
門人は、文立を顔回に、陳寿と李虔(李密)を游夏(子游と子夏)に、羅憲を子貢になぞらえた。
文立は益州刺史費禕に嘱目されてその従事となり、のち宮中にはいり尚書郎になった。
費禕が大将軍になると、辟かれて東曹掾(人事部長)になり、さらに尚書に遷任された。

済陰太守

蜀が魏に滅ぼされた後、魏が益州を分割して梁州を設けると、文立は別駕従事(副知事)に任じられた。
咸熈元年(二六四年)、秀才に挙げられて郎中になった。
晋が建てられた翌年の泰始二年(二六六年)に、文立は済陰太守を拝命した。
二年後に賢良直言の士を推挙するようにとの詔勅が下されると、文立は郤詵を推挙した。
また、上表して、
「命士(朝臣)が贄を執る(贈物のやりとりをする)のは煩瑣でございます。
どうか幣礼をやめさせていただきますよう」
と、願い出て、聴きいれられたこともあった。

孔明の子孫

その後、太子中庶子に選任された文立は、上疎してつぎのように願い出た。
「もとの蜀の名臣の子孫が中畿(中原)で流徙しております。どうかかれらを任用していただきますよう。
さすれば、巴蜀の人心を慰安し、呉人の望みを傾けることになりましょう」
武帝はこれを容れ、諸葛亮、蒋琬、費禕らの子孫を登用した。

側近の器

泰始十年(二七四年)、武帝はつぎのような詔を発した。
「太子中庶子の文立はよく仕えて誠実で節操を守り、思慮深くて才幹がある。
まえに済陰にいたとき、公正な政事をおこない、のちに東宮にうつってからは節義を尽くして輔導した。
むかし光武帝が隴と蜀を平定したとき、その地の賢才をみな任用したという。
おもうに市井に埋もれた隠士を抜擢し、遠方を救おうとしたのであろう。
それ文立を散騎常侍(側近官)にせよ」
文立は上疎して、
「臣は無能にて、左右機納(側近)の器ではございませぬ」
と辞退したが、武帝は、
「常伯の職(側近官)には才ある者を選んで授けるものである。謙遜するでない」
と詔し、聴きいれなかった。

強欲と酒乱

ときに、益州の監軍が欠員となった。
「楊宗か唐彬を用いようとおもうんじゃが、どちらがよかろう」
文立は武帝からそう諮われた。
楊宗は文立と同じ巴郡の出身で、蜀滅亡時は羅憲の部下として戦い、
晋になって羅憲が都に召されると、その後任の武陵太守となっていた。
文立は、
「楊宗、唐彬いずれも申し分ないと存じます。ただ、唐彬は財欲が多く、楊宗は酒を好みます」
とだけいい、武帝に判断を任せるようにした。
「財欲は満たせようが、酒癖は直らんじゃろう」
武帝はそういって、唐彬を任用した。
唐彬は後に討呉戦で活躍し、大功を立てた。

不党の人

文立は、武帝に蜀の賢俊を召し寄せたいという意望があると知るや、益州と梁州の人士を選抜し、推挙した。
それが公平かつ適切であったので、二州の士のよりどころになった。
文立は、蜀の尚書であった程瓊と深い親交があった。程瓊は高雅で徳行ある人物であった。
武帝は、程瓊の名をきくと、文立にどんな人物かを諮うた。
「臣はかれの人となりをよく存じておりますが、齢八十になろうとしております。
生まれつき控えめで、かつてのようなはたらきは望むべくもございません。
それゆえ、お耳に入れるのをさし控えておりました」
程瓊はこれをきいて、
「広休(文立のあざな)は公平じゃ。それゆえ、われはかれと仲よくしておるんじゃ」
と、いった。

名 卿

文立は、西域より馬が献じられたとき、
「この馬は、どうじゃ」
と、武帝から目利きをたずねられ、
「太僕(車馬担当大臣)にお諮いあそばされませ」
と、応えた。
このように文立はつつしみ深くしているので、武帝に気に入られ、衛尉(皇宮警察長官)に遷任された。
群臣は、文立が賢明で雅量があることに感服し、
「時の名卿」
と、称した。
文立は、上奏文や詩賦を数十篇著した。

栄 寵

咸寧の末(二七九年頃)になって、文立は何度も上表して、
「年老いましたので、解替していただき、桑梓(故郷)に還らせていただきとう存じます」
と、願い出たものの、ききいれられないうちに亡くなった。
武帝は文立が郷里を懐かしがっていたことをおもい、
文立の遺骸を蜀へ送り、葬礼をおこなわせ、墳塋(墓)を造らせた。
当時の人は、これをたいへんな栄誉とした。

SHARE
シェアする
[addtoany]

ブログ一覧