善は衆の主 苦悶の宰相 欒書(欒武子)(春秋 晋)(5) 苦悶
中原の覇権をめぐり長らく反目を続けてきた晋楚二大国が、
紀元前579年に宋の華元の周旋で不戦の盟約を交わした。
楚の脅威がなくなり、晋は同盟国とともに西隣の秦の背信をとがめる兵を挙げた。
国外が平穏になると、国内で権力闘争が起こる。
3年後、郤錡、郤至、郤犨のいわゆる“三郤”が、博識の争臣として知られる伯宗を譖って殺した。
この時、伯宗と親しくしていた者らも連座して殺された。
その中に、賢大夫として知られる欒弗忌も含まれた。
それまで欒氏は郤氏と良好な関係にあったが、
族人を殺されたことで、
欒書は郤氏を怨むようになった。
中国史人物伝シリーズ
欒書(1) 邲の戦い
欒書(2) 善は衆の主
欒書(3) 揺蕩
目次
破 約
楚の北伐
厲公五年(紀元前五七六年)の夏に、楚が北伐を敢行し、鄭と衛に侵攻した。
その報せに接し、
「もう盟いを破るのか」
と、欒書は怒り、
「天に代わって、懲らしめねばならぬ」
と、息巻いたが、
「その必要はありますまい。きゃつらの罪がさらに重くなれば、民心が離れてしまいます。
そうなれば、どうやって戦うというのですか」
と、韓厥にたしなめられ、思いとどまった。
鍾離の会同
楚が再び中原をうかがうのであれば、晋もそれに備えなければならない。
その年の十一月に、楚と呉の境界近くに位置する淮水沿岸の鍾離に各国の大夫を集め、士燮が会同を主宰した。
この会同には、大きな意義があった。
呉の大夫が参加してくれたからである。
これにより、中原諸国が呉とはじめて通交するようになった。
さらに、晋にとっては、楚の背後を牽制することになる。
苦 悶
憂 患
厲公六年(紀元前五七五年)春、晋の盟下にあったはずの鄭が楚と盟い、宋を攻めた。
その報せを受けて、厲公は廟議をひらき、
「背信の国を、とがめねばならぬ」
と、いった。
これに対し、士燮が口火を切って発言した。
「人臣たる者は、国内で睦み合ってから国外のことを考えるものである、ときいております。
国内で睦み合わないうちに国外のことを考えてしまえば、必ず内乱が起こりましょう。
なにゆえかたがたは親睦を図らないのですか。
国内で睦み合ってから兵を出せば、怨みをいだくことはないでしょう」
士燮はそういって性急を戒め、さらに次のようにつづけた。
「ただ厚徳の者だけが多福を受け、徳もないのに服従する者が多ければ、
必ず自身を傷つけてしまう、ときいております。
もし晋が望みをかなえようとして、諸侯がみな叛けば、晋は治まり、かえってよい結果になりましょう。
諸侯が従っているから、乱れているのです。諸侯こそが、災難の本なのです。
鄭を得れば憂いはますます大きくなろうというのに、なにゆえ鄭を伐とうとなさいますか」
士燮がそういって反戦を主張すると、
「それなら、王者はさぞ憂いが多いのでしょうな」
と、郤至が皮肉を浴びせた。
「王者の徳は完成されており、遠方の人が地場の産物を献上して帰服するゆえ、憂いなどない。
いま、われらは寡徳でありながら、王者の徳を求めようとしている。それゆえ憂いが多いのだ。
なんじは領地がないのに富もうと望む者をみて、楽しいとおもうか」
士燮にそう反駁され、郤至が口をつぐんでしまうと、満座が水を打ったように静まり返った。
士燮は、なおも説諭をつづけた。
「内憂も外患もないのは聖人だけである。聖人でなければ、外患がなければ必ず内憂があるものだ。
なにゆえ楚と鄭を放置しておいて外患にしないのか。
諸臣が国内で協力すれば、必ず輯睦しようとするであろう。
いま戦って楚と鄭に勝てば、わが君は功を誇り教化を怠って賦斂(租税)を重く取り立て、
近臣を増やし、婦人の田地を増やそうとするであろう。
諸大夫の田地を奪わなければ、どの田地を奪い取って増やそうというのか。
そうなれば、諸臣で家を捨てて虚しく退去する者が何人出てくるであろうか。
戦って勝てなければ、それが晋国の福禄である。勝てば秩序が乱れ、大きな害をもたらすことになろう。
なにゆえしばらく戦わないようにしないのか」
あとのことを想えば、正鵠を得た発言となった。
さすがに欒書が「衆の主」と称するだけあって、かれには先見の明があったといえよう。
三大恥
いま楚と戦って、晋によいことなど何もない。
それは欒書もわかっている。
おのれが厲公から信頼されていないこともわかっている。
厲公の信頼は、三郤、すなわち、郤錡、郤至、郤犨の三卿にあった。
厲公は驕慢で、三郤は厲公の寵愛を笠に着て傍若にふるまい、宰相たる欒書に従わない。
欒書は、三郤から突き上げられ、かれらを制御することができずにいた。
欒書は廟堂の首座にいるため、戦って勝っても昇進することはなく、
敗れればかえって失脚させられるはめに遭いかねず、
勝ったところで三郤の讒言で失脚させられる可能性すらあり、地位の保全さえも危うい状況にあった。
いわば累卵の危うきにあることを自覚しており、士燮に同調できずにいたいらだちから口をついて出たのが、
「晋国には、三つの大恥がある」
という発言となった。
韓原の戦いで、恵公が捕虜になった。
箕の戦いでは、元帥であった先軫が戦死した。
そして、邲での大敗である。
「いま、われが晋の国政をおこなっているときに、晋の恥を雪ぐどころか、蛮夷を避けて恥を重ねてしまえば、
後患があったとしても、われの知ったことではない」
決 意
もはや自力では打開できない状況にある以上、戦端を開き、なりゆきにまかせるしかない。
進退ままならない状況であるとはいえ、国政を預かる宰相としては、無責任な発言であろう。
しかし、士燮は欒書を責めず、
「福を択ぶには重いものにこしたことはなく、禍を択ぶには軽いものにこしたことはありません。
福は軽いものを択んではならず、禍は重いものを択んではなりません。
晋国に大恥があったとしても、君臣が互いにいうことを聞かないために諸侯に笑われてしまうよりは、
蛮夷を避けて恥とした方がよいではありませんか」
と、諭すようにいった。
しかし、欒書は、ゆるやかに首をふり、
「われらの代で諸侯を失うわけにはゆかぬ。こうなれば、鄭を伐つまでじゃ」
と、いった。盟主国の宰相としての矜持からでた決意表明といえよう。
次卿(副宰相)の士燮が厭戦を主張し、宰相の欒書までもがそれに同調してしまえば、
好戦的な厲公の怒りを買って失脚させられかねない。
ゆえに、厲公の意向に沿って鄭を攻めることに決めたのである。
むろん、それが楚を刺戟するであろうこともわかっていての決断である。
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