剛直ゆえに次の丞相で終わった高節の儒者 蕭望之(前漢)(2) 宮仕え
蕭望之は農家の出でありながら儒学を修め、当時の実力者霍光に招かれた。
だが、剛直なかれは、霍光が課した身体検査を拒んだため、
登用されず、同時に招かれた者の後塵を拝するしかなかった。
しかし、蕭望之はそれでは終わらない。
射策甲科に及第して官に就くと、その博識と便宜により宣帝に気に入られ、
歳中三遷し、二千石の高官に取り立てられた。
名儒のきこえ高いかれのこと、その後順調に出世を果たせるかに思われたが……
中国史人物伝シリーズ
武帝の死後 漢朝を運営した大将軍 霍光
目次
宮仕え
平原太守
博士や諫大夫のうち政事に通じている者を選んで郡の太守や国の宰相に補任することになり、
蕭望之は平原太守に任じられた。
しかし、朝廷での勤務を望む蕭望之は、
――郡太守として遠方に飛ばされるなんてたまるか。
と、不満をいだき、上疎してつぎのように申しあげた。
「陛下は百姓を哀愍され、徳化がゆきわたらないことを恐れるあまり、
諫臣をことごとく出して郡吏に補任なさいましたが、
これはいわゆるその末を憂えてその本を忘れるようなものにございます。
朝廷に争臣がいなくなれば過ちを知ることができず、国に練達の士がいなくなれば善をきくことができません。
願わくば陛下におかれましては、経術に明るく、温故知新で機微に通じた謀慮の士を選んで内臣とし、
政事に参与なさいませすよう。
諸侯がこれをきけば、国家が諫言を納れて政を憂え、遺漏のないことを知りましょう。
このようにして怠らなければ、周の成王、康王の道とあまり変わらなくなるのではございますまいか。
外郡が治まらなくても、憂えるに足りましょうや」
上書が奏聞されると、徴されて宮中にはいり、仮の少府となった。
左馮翊
しかし、その後、左馮翊(首都圏北部の長官)に任じられた。
その心は、宣帝は蕭望之を宰相にふさわしい人材であるとおもい、
地方に出して行政能力を確かめることにあった。
しかし、蕭望之は宮中から出されて左遷されたとおもい、
――主上の意に沿わないことがあったのではないか。
と、恐れ、上書して病と称した。
宣帝は侍中の金安上(金日磾の甥)をつかわして告げ諭した。
「なんじを左馮翊に任じたのは、民を治めさせてその成績をみるためじゃ。
君はまえに平原太守になったが、短期間でしかなかった。
ゆえにまた三輔(首都圏)においてこれを試そうというのじゃ。別に何かをきいたわけではない」
それをきいて、蕭望之はただちに赴任した。
振救の策
贖 罪
元康三年(紀元前六三年)に、中国西部に居住する遊牧民族である西羌が漢にそむいたので、
後将軍に征討させた。
京兆尹(都知事)の張敞は、遠征による民への負担を案じ、上書して、
「罪人に穀物を提供させて罪を贖わせますよう」
と、進言すると、蕭望之は少府の李彊とともにこれを論議して、つぎのように意見した。
「民は陰陽の気をふくみ、仁義と利欲があり、教化により助けられます。
堯帝が上にいましても民の利欲を取り除くことはできませんが、
欲利が義を好む心を抑えつけないようにすることはできます。
桀王が上にいましても民の義を好む心を取り除くことはできませんが、
義を好む心が欲利を抑えつけないようにすることはできます。
ゆえに堯と桀の違いは義と利があるだけで、民を導くことは慎まずにはおられないのです。
いま民に穀物を提供させて罪を贖わせようとさせておりますが、そうなれば富む者が生を得、
貧者のみが死ぬことになり、貧富で刑が異なり、法の適用が不公正になります。
人情として、貧窮であっても、父兄が囚われて、財を出せばまともな暮らしができるときけば、
人の子弟たる者は死亡の患えや国家敗乱のおこないを顧みずに財利にはしり、親戚を救うことを求めましょう。
一人が生を得て、十人が葬亡する。
このようでは伯夷のおこないが壊れ、(孟)公綽(孔子が尊敬した清廉寡欲の人)の名が滅んでしまいます。
政教がひとたび傾けば周公や召公の輔佐があったとしても、修復できないでしょう。
むかしは民に蓄えさせて足らなくなればこれを取り、余剰が出れば民にあたえました。
『詩』(小雅)に、ここに矜人(貧しく弱い人)に及び、この鰥寡(配偶者を失った男女)を哀れむ、
とありますが、これは上が下を恵むのです。
また、わが公田に雨が降り、遂にわが私田に及ぶ、ともありますが、これは下が上を急かすのです。
いま西辺の夫役があり、民は作業を失っておりますが、戸ごとに賦課し、
口ごとに税斂して困乏を補わせたとしても、古の通義としてこれを非とする百姓はおりません。
しかし、(子弟が)死をもって(父兄の)生命を救うのは、おそらくよくないでしょう。
陛下は徳を布き教えを施され、教化はすでに成り、堯や舜であってもこれに加えるものはありません。
いま議して利路を開いて既成の教化を傷なうことを、臣はひそかに心を痛めております」
難 問
そこで宣帝がその議を両府(丞相府と御史府)に下げ渡すと、丞相の魏相と御史大夫の丙吉は張敞を難詰した。
これに対し、張敞はつぎのように応えた。
「少府と左馮翊の言は常人が守っていることにすぎません。
むかし先帝は四夷を征伐し、三十余年にわたり兵事がおこなわれましたが、百姓に賦課を加えませんでした。
いま羌虜は一隅の小夷にすぎず、山谷の間に跳梁しておりますから、
漢はただ罪人に財を出させてその罪を減らし、虜を誅するならば、良民を煩擾させ、
要らぬ賦斂を課すより賢明で、その利便ははなはだ明白で、教化が乱れることなどございましょうや。
われは皁衣をつけ(仕官し)てから二十余年、かつて罪人の贖罪をきいたことがありますが、
それで盗賊が起こったことをきいたことがございません。
涼州が侵寇され、まさに秋の実りの季節なのに民はなお飢乏し、
道路で病死するのをひそかに憐れんでおりますが、来春になっておおいに困しむようではなおさらです。
われは幸いに列卿の位にあり、両府の輔佐を職掌としておりますゆえ、
あえて愚忠を尽くさずにはおられません」
蕭望之と李彊は、これに反論していった。
「聞くところによれば、天漢四年(紀元前九七年)に死罪の者に
五十万銭を供出させて罪一等を減ずるようにしたため、豪強の吏民が盗賊になり、銭を奪って贖罪しました。
その後姦邪が横暴となり、群盗がならび起って城邑を攻め、郡守を殺し、山谷に充満するに至りましたが、
吏人はそれを止めることができませんでした。
そこで詔を下して、繡衣使者を遣わし、兵を興して群盗を撃ち、過半を誅すと、衰えて止みました。
これは死罪を贖わせたことによる禍敗であり、それゆえよくないと申しているのです」
――羌虜はまさに破られようとしており、軍需物資が不足する心配もない。
魏相や丙吉はそう判じ、張敞の意見を採らなかった。
蕭望之は左馮翊を三年務め、朝廷での評判がよかったため、大鴻臚(外務大臣)に遷任された。
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