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中国史人物伝

皇帝の廃替を敢行しながらも功臣とされた外戚 関白の元祖 霍光(前漢)(6) 関白

霍光(5)はこちら>>

山東にある昌邑は、漢初の功臣として梁王に封じられた彭越の出身地であるが、

地名から想起される人物といえば、やはり劉賀であろう。

劉賀は昌邑王に封じられた武帝の五男劉髆の子で、昭帝の死後、

霍光らに擁立されたものの、政争に敗れ、わずか27日で帝位を逐われた。

この故事により、“昌邑王”は、後世、皇帝不適格者の代名詞となった。

こうなると、もはや後継者選びに失敗は許されない。

――たれを立てれぱよいか。

と、苦慮した霍光は、皇帝にふさわしい人物を擁立することができたのであろうか。

中国史人物伝シリーズ

霍光(1) 出世

霍光(2) 博陸侯

霍光(3) 権力争い

霍光(4) 昌邑王

目次

皇曾孫

――たれを帝位に即けるべきか。
後継者の選定に苦慮する霍光のもとに、丙吉から書翰が送られてきた。
それを読んで、霍光はおもわず目を瞠いた。そこには、
「衛太子の孫が、皇曾孫と号して民間におられます」
と、記されていたのである。
衛太子とは、衛皇后が生んだ武帝のもとの太子劉拠のことである。
――遺詔により養われている孝武皇帝の曾孫で、病已という者がおります。
  いまは十八歳ですが、経術に通じ、才能が立派で、おこないは慎み深く、節度にかなっております。
霍光は皇孫から後嗣を選ぼうとしていたが、皇曾孫までは頭になかった。
「そのような方が、おられたのか」
霍光は書を読み終えると、手を拍ってそう叫んだ。
劉病已は劉拠の孫であるから、帝室の嫡流にあたるといってよい。
霍光が出世できたのは、衛皇后と縁戚であったからにほかならない。
――これこそ、ご恩返しというものじゃ。
霍光は、さっそく張安世と杜延年に丙吉からの書翰をみせ、
「このお方がよい、とおもうのじゃが」
と、意向を示すと、
「亡き兄(張賀)も、かねがね皇曾孫のことを称めておりました」
と、張安世が応じ、杜延年も賛意を示した。

宣 帝

七月に、霍光は丞相の楊敞らとともにつぎのような上奏をおこなった。
「孝武皇帝の曾孫病已は、武帝のとき詔により掖庭(後宮)で養われ、今年で十八歳になります。
師について『詩』『論語』『孝経』を受け、ふるまいは控えめで、情け深く人を愛するとのこと。
孝昭皇帝の後を嗣ぎ、祖宗の廟を奉承し、万姓を子とすることができましょう。臣ら昧死して申しあげます」
「よろしい」
との皇太后の裁可を得ると、霍光は宗正劉徳を劉病已の家がある尚冠里へ遣り、
洗沐(沐浴)させてから御衣を賜い、太僕杜延年が軨猟車(軽便小車)で劉病已を宗正府へ送り、斎戒させた。
庚申(二十五日)、劉病已は未央宮にはいり、皇太后に謁見し、陽武侯に封ぜられた。
無位無官の平民をいきなり皇帝に立てることを忌憚したためである。
ついで、霍光が皇帝の璽綬を奉った。
こうして、劉病已は帝位に即いた。これが宣帝である。
霍光の威光にひれ伏す者ばかりの朝廷にあって、気骨の士がいた。
侍御史の厳延年である。
「大将軍光は、ほしいままに主を廃立しました。人臣の礼がなく、不道です」
かれがそう劾奏したところ、朝廷は粛然とし、厳延年を敬憚したという(『資治通鑑』)。

関 白

――これで、肩の荷がおりた。
そうおもった霍光は、年があらたまると(紀元前七三年)、宣帝に拝謁し、稽首して、
「政を、お還しいたしとう存じます」
と、申し出た。しかし、宣帝は、
「いや、これまで通りにしていただきたい」
と、謙譲して受けず、
「諸事みなまず霍光に関り白し、奏上はその後でよい」
と、霍光に特別待遇を与えた。これが、関白の起源である。
そればかりではない。
「大司馬大将軍光は宮中に宿衛すること忠正で、徳を宣べ恩を明らかにし、
節を守り義をとって宗廟を安んじた。それ河北及び東武陽の二県をもって光に万七千戸を増し封ずる」
という詔も下った。これで霍光の食邑は、従前とあわせて二万戸となった。
恩沢は、それだけにはとどまらなかった。
霍光の子霍禹と霍去病の孫霍雲は中郎将、霍雲の弟霍山は奉車都尉・侍中となり、胡と越の兵を率いた。
さらに、霍光の女婿范明友が未央宮の衛尉、同じく鄧広漢が長楽宮(東宮)の衛尉となるなど、
兄弟、女婿、外孫らがみな諸官署の官吏になり、霍氏の親族が連なって朝廷に権勢の根を張った。
これが、霍光に対する宣帝の感謝のあらわれなのであろう。

畏 敬

宣帝の霍光への畏敬は、相当なものであった。
宣帝は霍光のいいなりで、霍光が朝見するたびに、宣帝は容貌を正してつつしんだ。
ときには、礼から外れるほどへりくだった態度をとったこともあった。
そして、本始四年(紀元前七〇年)に、霍光の女が皇后に立てられた。
皇太后の外祖父である霍光が、宣帝の舅になったのである。
――こんなに恵まれてよいのか。
宣帝の気遣いに、霍光は身ぶるいすらするおもいがした。
地節二年(紀元前六八年)に、霍光は病を得て、危篤に陥った。
宣帝がみずから病牀を見舞い、霍光のために涕泣した。
その際、望むものはないか訊かれたかもしれない。
霍光は上書して謝恩するとともに、
「願わくは国邑のうち三千戸を分けて、兄(霍去病)の孫 奉車都尉山を封じて列侯にしていただき、
兄票騎将軍去病の祭祀を継がせていただきますよう」
と、願いでた。
霍去病の死後、冠軍侯を継いだ子の霍嬗が早世し、後嗣がなかったため、国が除かれていた。
――大恩ある兄を祀る者がいない。
これこそが、霍光が長くいだいていた懸念であった。
宣帝はその意を汲み、霍光の死後に霍山を楽平侯に封じ、霍去病の祭祀を継がせた。
事案は丞相御史に下され、その日のうちに霍光の子霍禹が右将軍を拝命した。

美 謚

位人臣をきわめた霍光も寿命には勝てず、三月庚午(八日)にこの世を去った。
葬礼は天子のものに準じて執り行われ、宣帝と皇太后がみずから参列した。
霍光は死後、宣成侯と謚された。
『逸周書』謚法解によれば、
――聖善にして周く聞くを宣という。
および
――民を安んじ、政を立つるを成という。
とある。
美謚を二字重ねたことで、宣帝は霍光の善政を高く評価したのみならず、
自身を擁立してくれたことへの報恩もあらわしたのかもしれない。
霍光は皇帝の廃替を敢行したものの、みずからそれに取って替わったわけではなく、
武帝の遺詔を遵奉し、漢室の安定に心を砕いた。
それが高く評価され、漢中興の功臣として死してなお誉聞にくるまれた稀有な存在となった。

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