Blog ブログ

Blog

HOME//ブログ//キングダム 范雎を引退させた一切の弁士 蔡沢(戦国 秦)(1)四時の序

中国史人物伝

キングダム 范雎を引退させた一切の弁士 蔡沢(戦国 秦)(1)四時の序

個人の能力ではどうにもできない“運命”なるものは、果たして存在するのであろうか?

天下の強大国 秦の昭襄王に気に入られ、貧しい出自ながら丞相(首相)に昇った

范雎

は、遠交近攻策を駆使して天下統一の基盤を築いた。

だが、推挙した人物が相次いで失態を犯したため、立場を悪くした。

そこに、范雎に取って替わらん、と乗りこんできたのが、

蔡沢

という無名の説客であった。

百戦錬磨の説客として鳴らした范雎を、蔡沢はいかにして説き伏せるのか――。

中国史人物伝シリーズ

目次

聖人不相

唐 挙

蔡沢は燕の出身で、博識で弁が立つことを売りにして、敝車(粗末な車)に乗って游学しながら
仕官を求めて諸侯を説いたものの、まったく容れてもらえなかった。
そんなとき、
「魏に、唐挙という評判の人相見がいる」
と、聞き知り、蔡沢は、
「よしっ、われもひとつみてもらおうか」
と、いうなり、魏へ馬車を馳せらせて、唐挙に人相を観てもらった。
唐挙は当時における著名な人相見で、人の身体的特徴と面相から吉凶禍福を予言し、
『荀子』(非相篇)にも称賛された。
そんな人物にむかって、蔡沢は、
「先生は李兌の人相を観て、百日のうちに政柄を握るであろう、とおっしゃったそうですが」
と、話しかけた。
李兌は趙の大夫で、胡服騎射を取り入れ、中山国を滅ぼして趙の版図を拡げた武霊王を
餓死に追いやり(沙丘の変)、司寇(警察長官)に昇り、政を専らにした。
ふたりの話が真実であれば、唐挙が李兌を占ったのは、紀元前二九五年、沙丘の変の直前ということになる。
「そんなこともありましたな」
蔡沢にそう返した唐挙の反応は、まんざらでもないようであった。
「われは、どうですか」
と、蔡沢が問うと、唐挙はけわしい顔で蔡沢を熟視し、
「獅子鼻(天井をむいた鼻)でいかり肩、額は出っ張り、ぺしゃんこ鼻、膝は曲がったままで伸びん」
と、つぶやき、やがて表情をやわらげると、突如として笑いだし、
「聖人は相あらず、というのは、先生のことでしょうか」
と、いった。聖人は人相ではわからない、というのである。

寿 命

――どうやらからかわれているようだな。
と、察した蔡沢は、
「寿命は、あとどのくらいありますか」
と、たずねた。
「あと四十三年です」
という唐挙のみたてを聞いて、蔡沢は笑い、
「よいことをきかせていただきました」
と、謝意を示し、辞去した。
帰途、車上の人となった蔡沢は、
「梁(上等の白米)や肥肉を食べ、馬を躍らせて疾駆し、黄金の印を懐につけ、
(大官になって)紫綬を腰に結び、国君と揖譲の礼(主客の礼)を交わし、
(官吏になって)肉を食らい富貴を得るのに、四十三年あれば十分じゃ」
と、御者にむかって満足げに語った。

応 侯

その後も志を遂げぬまま諸国を彷徨する歳月がつづき、秦の昭襄王五十二年(紀元前二五五年)になった。
趙を逐われて韓や魏に入った蔡沢は、盗賊に釜や鬲(かなえ)を奪われ、食事に事欠くほど困窮してしまった。
そんなときに、たまたま、
「応侯(范雎)が、苦慮している」
という話を、耳にした。
范雎は、秦の丞相(首相)である(応は、范雎の領地)。
当時の秦の丞相は、もはや天下の主宰者といってよい。
五年前、秦は名将の白起の活躍により長平で趙軍を大破したが、
邯鄲攻略をめぐる意見の食い違いから白起を殺してしまった。
白起の代わりの将軍に、范雎は恩人の鄭安平を推挙し、趙を攻めさせた。
ところが、鄭安平は趙軍に包囲され、降伏してしまった。
また、范雎は恩人の王稽を昭襄王に推挙して河東郡守に任じてもらっていた。
だが、王稽が諸侯に通じていたかどで誅せられた。
秦の律(法)によれば、推挙された者が不適任であった場合、推挙した者も同罪とされた。
そのため、范雎は懼れをなして、どうしようもできないでいた。
そう聞き知って、蔡沢は、
――よしっ、われが応侯に取って替わってやろう。
と、計り、西のかた秦へむかった。

挑 発

秦の首都である咸陽にはいると、蔡沢は一策を案じ、人をつかって、
「燕からきた説客の蔡沢は、天下の俊傑にして雄弁の士。
蔡沢が秦王に面会すれば、秦王は君から丞相の位を奪ってしまおう」
と、言いふらさせた。
――いずれ応侯の食客が聞きつけよう。
との狙いであった。
はたして、范雎の家臣が蔡沢を探しにやってきた。
「そこもとが蔡沢か」
「さよう」
「丞相が尋問なされる」
そう告げられて、丞相府に連れていかれた蔡沢は、
――うまくいったわい。
と、こみあげる笑いをこらえつつ、
――とにかく、応侯を怒らせよう。
と、胸裡で説述の戦略を練った。

四時の序

范雎に会うと、蔡沢は揖の礼をした。
揖は、両手を胸の前で組み合わせて軽くお辞儀をするもので、対等な相手に対しておこなうものであった。
蔡沢からすれば、明らかに范雎の方が尊貴であるので、拝礼すべき相手である。
むろん、蔡沢は范雎を怒らせようとして、故意に無礼をはたらいたのである。
范雎は不機嫌をかくさず、
「われに取って代わろう、とか申しているそうじゃが、まことか」
と、厳しい口調で責め詰った。
「さようです」
蔡沢が平然とそう応えると、范雎は、
「わけをきかせてもらおうか」
と、居丈高に訊いた。
「ああ、君はなんとものわかりの悪いお方じゃ」
蔡沢はそういって嘆息し、
「四時の序、功を成す者は去る」
と、大胆にいい放った。すると、范雎は、
「なんだって」
と、声を荒らげた。
四時の序は、四季の移り変わりである。
――季節が移ろうように、功を成せば後進に譲って去るものである。
という意で現在なお慣用句として使われる語を用いて、蔡沢は范雎に引退を迫った。

忠臣の末路

「秦の商君(商鞅)、楚の呉起、越の大夫種は、望み通りの終わりを迎えられたのでしょうか」
と、蔡沢は、范雎に問いを浴びせた。
ここでかれが挙げた三人は、いずれも大功を挙げながら終わりをよくしなかった傑物である。
すると、范雎から意外な意見が返ってきた。
「どうして終わりがよくないなんていえようか。かの三人は義の至りであり、忠節にすぐれていた。
君子は身を殺して名を成すものじゃ。義があれば、死んでも恨んだりせぬ。
どうして終わりがよくないなどといえようか」
まるで蔡沢の舌鋒に抗おうとするかのような強気な物言いであった。
――そうくるか。
蔡沢は内心おどろきつつも、話を転じた。
「君主が聖人で、臣下が賢人であることは、天下にとっての幸いです。
君主が英明で、臣下が忠実であることは、国にとっての幸いです。
父が慈愛深く、子が孝心厚く、夫が誠信で、妻が貞淑であることは、家にとっての幸福です。
それなのに、比干が忠義を尽くしても殷を存続させることができず、
伍子胥が智を尽くしても呉を存続させることができず、申生が孝を尽くしても晋は乱れました。
このように、忠臣や孝子がありながら国家が滅乱するのは、どうしてでしょうか。
それは、忠臣や孝子の言に耳をかたむけるような明君や賢父がいなかったからです。
そのため、天下の人々はその君父が戮辱したとして、その臣子を憐れんだのです。
死ななければ忠を立て、名を成すことができないのでしたら、
微子は仁とするに足らず、孔子は聖とするに足らず、管仲は大とするに足りますまい」
ここでようやく范雎が、
「なるほどな」
と、つぶやいた。

SHARE
シェアする
[addtoany]

ブログ一覧