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中国史人物伝

百発百中 弓の名手 養由基(春秋 楚)

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、

沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。

ではじまる『平家物語』には、屋島の戦い(1185年)において、

源氏方の武士那須与一が平氏の軍舟に掲げられた扇の的を射抜いたという話がある。

春秋時代の中国において、那須与一に劣らぬ弓の名手といえば、
養由基(養叔)
が挙げられよう。

紀元前六世紀前半に南方の大国 楚で活躍したかれは射御にすぐれ、

百歩離れたところから柳の葉を百回射てすべて命中させたり、

弓矢の調子をととのえただけで猿が木にすがって鳴き叫んだり、

蜻蛉の羽を射たりするなど多くの逸話がある。なかでも、

「百発百中」

という語の由来となった

百歩離れた場所から柳の葉を百回射て、すべて命中させたという話が

『戦国策』(西周策)にあることから、

養由基は、遅くとも漢代には弓の名手として神格化されていたようである。

その史実における活躍ぶりは、いったいどのようなものであったのか。

中国史人物伝シリーズ

目次

邲の戦い

荘王十七年(紀元前五九七年)、楚の荘王は、
「馬に河水(黄河)の水を飲ません」
と、いって北伐を敢行し、中華の中心ともいうべき位置にある鄭を攻めた。
荘王は直属兵を右広と左広にわけ、右広は夜明けから見回りをおこない、
日中になると左広が交替して日暮れまで見回りをおこなった。
この戦いで荘王の右広の兵車の御者を務めたのが、養由基であった。
さて、鄭を攻めれば、盟主国の晋を刺戟することになる。
はたして、
「晋師が河水を渡りました」
との報せを受けて、荘王は、
「引き揚げよう」
と、いい、晋の陣に使者を遣わして講和を求めた。
晋もそれに応じ、会盟の日取りも決まった。
ところが、六月乙卯(十四日)の朝まだき、
「晋師来る」
という報せに接し、荘王が左広の兵車に乗って晋軍に応戦した。
すると、晋軍は逃げた。
「追え――」
荘王がそう命じて晋軍を追うと、楚の全軍が出撃し、疾駆して晋軍に襲いかかった。
これに対し、晋軍は河水にむかって退きはじめた。
こうなると、楚軍が一方的に攻めたてて大勝し、荘王が覇者になった。
戦いのさなか、左広の兵車に乗っていた荘王が右広の兵車に乗りかえようとすると、
「王はこの車に乗って戦をはじめましたからには、最後まで乗っていただきます」
と、車右の屈蕩に制止され、そのまま左広の兵車に乗って指揮をとり続けた。
そのため、この戦いで養由基が荘王を乗せた兵車を御すことはなかった。

鄢陵の戦い

腕比べ

共王十六年(紀元前五七五年)、共王(荘王の子)は晋に攻められた鄭に援軍を発し、鄢陵で晋軍と対峙した。
六月癸巳(二十八日)、決戦を前に、
「一発の矢で何枚の甲を貫けるか、勝負しないか」
と、共王の車右であった潘党から誘われた。
「よっしゃ」
二人が甲を重ねてかわるがわる弓を引き、矢を放つと、二人とも七枚重ねの甲を貫いた。
「さっそく王にご報告じゃ」
二人ははしゃぎながら矢のささった七枚重ねの甲を共王に奉呈し、
「王にはこれほどの弓の名手が二人もおります。戦いに何の心配もございません」
と、得意気にいった。
――王は喜んでくれよう。
二人はそう思った。
ところが、共王は色をなし、
「なんじらは大いに国を辱めたんじゃ。明朝の戦いでなんじらが弓を射れば、その芸で死ぬことになろう」
と、二人を叱りつけ、弓矢を取りあげてしまった。

一 矢

翌日、両軍が戈矛を交えた。
喊声が晩夏の野天にこだまして赤と黒で染められた大地を震わせ、
鮮血が戦地を朱く染め、兵馬が濛濛と上げる砂塵が天を翳らせた。
赤は晋の、黒は楚の軍装である。
両軍の兵馬が入り乱れるなか、晋の大夫魏錡が放った矢が共王の目に中たった。
「よっ、養由基はおるか」
共王が血のしたたる目を押さえながら、そう叫んだ。
「はっ、ここに」
そういって伺候した養由基に、共王は二本の矢を与え、
「射返せ」
と、命じた。
「はっ」
養由基はそのうちの一本を弓につがえ、魏錡にむけて無表情に放った。
強弓から発せられた矢は魏錡めがけて一直線に飛び、項に刺さり、弓袋に倒れ込んだ。
それを見届けてから養由基は共王に復命し、使わなかったもう一本の矢を還した。

奮 戦

共王の負傷は、両軍の士気に多大な影響を及ぼした。
楚軍は晋軍に押され、険所に追いつめられた。
「王のご命令とはいえ、国のためじゃ。射てくれないか」
と、叔山冉から頼まれた。
養由基はその発言に理を認め、矢を弓につがえた。
かれが二本の矢を放つと、二本とも晋兵のからだを貫いた。
すると、敵軍にひるみが生じた。
その隙に叔山冉が晋軍に突入し、晋兵を搏撃して投げつけた。
投げつけられた兵のからだは兵車に打ちつけられ、横木である軾を折った。
養由基と叔山冉の奮闘により、楚軍は晋軍の進撃をなんとかくい止めることができた。
しかし、共王が夜陰にまぎれて陣中から逃げだすと、楚の将士はあわてて戦場から去っていった。
その結果、覇権が楚から晋へ移ってしまった。

宮厩尹

共王三十一年(紀元前五六〇年)九月庚辰(十四日)、共王が鄢陵の戦いで敗れ、
覇権を失ったことを悔やみつつ四十一歳で世を去った。
すると、呉が楚の喪中につけこんで攻めてきた。
「礼も知らぬ蛮夷どもに、礼というものを教えてまいれ」
令尹(首相)の子嚢の命を受け、養由基が兵を率いて出撃し、司馬の子庚が一軍を率いてその後に続いた。
「呉がわれらの喪に乗ずるのは、われらが反撃できないとおもうてのことです。
きっとわれらを侮り、警戒しないでしょう。
あなたは三か所に伏兵を置いて、われをお待ちくだされ。われは呉軍をおびき寄せましょう」
養由基がそう提案すると、子庚は、
「あいわかった」
と、応じてくれた。
楚軍は庸浦で呉軍と戦い、大いに撃ち破った。
この手柄により、養由基は宮厩尹に任じられた。

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