讒者ですら過失を見出せなかった清貧の士 是儀(三国 呉)
三国時代の呉王朝の重臣であった
是儀(あざなは子羽)
は、黙々と職務に励んで清貧な暮らしを貫き、他人への批判を控え、
「清恪貞素」(廉潔で飾らない)
と、陳寿から評された(『三国志』呉書是儀伝)。
毛を吹いて疵を求めるような讒者ですら、是儀の過失をあげつらうことができなかったという。
――他人から恨まれないようにするには、どうふるまえばよいか?
是儀の事績を俯瞰すれば、その要諦を見いだせるかもしれない。
中国史人物伝シリーズ
目次
改 姓
是儀は北海国営陵県出身で、もとの名は氏儀といった。
はじめは県吏となり、北海国の吏に移ると、
「氏は民の上が欠けたもの。是に改めるべきじゃ」
と、北海国の相であった孔融にからかわれ、改姓した。
(氏と是は通用したという説もある。)
のちに戦乱を避け、江東へ逃れて劉繇を頼り、劉繇が敗れると、こんどは会稽へ徙った。
関羽討伐
是儀は孫権が君主になると徴召され、騎都尉を拝命した。
是儀はやがて孫権から親任され、機密事項を任されるまでになった。
建安二十四年(二一九年)、関羽が魏を攻め、荊州の守備が緩んだ。
呂蒙がその隙を衝いて、関羽を襲撃しようとした。
「うまくいくであろうか」
是儀は孫権からそう諮されると、
「きっとうまくいきましょう」
と、背を押したばかりか、みずからも関羽討伐に従軍して功をあげ、忠義校尉に任じられた。
「われには荷が重うございます」
是儀はそういって辞退したが、
「孤は趙簡子(趙鞅)に及ばないとはいえ、卿に周舎(趙鞅の諫臣)になってもらえぬということはあるまい」
と、孫権に説得され、拝命した。
遷 任
荊州を平定した孫権が呉王となり、武昌を都に定めると、是儀は裨将軍に任じられた。
さらに、都亭侯に封ぜられ、侍中代行となった。
孫権は是儀に兵を授けようとしたが、
「われにそんな才はございません」
と、いい、固辞して受けなかった。
黄武七年(二二八年)、是儀は孫権の命で皖に遣わされ、
劉邵将軍のもとで魏の大司馬曹休を誘致する計を立て、曹休が到るとおおいに破った(石亭の戦い)。
その功により偏将軍に遷任された是儀は、朝廷に入って尚書を務め、諸官の調整にあたり、
訴訟の処理も行ったほか、皇族や貴族の子弟らに学問を教授したりもした。
孫権が帝位に即き、建業へ遷都した際、是儀は武昌を留守する太子の孫登を輔佐するよう命じられた。
是儀は孫登から敬重され、孫登が事をなす際にはまず是儀に諮ってから実行に移すほどであった。
都郷侯に昇進した是儀が孫登に随って建業に移ると、ふたたび侍中兼中執法を拝命し、
以前のように諸官の調整にあたり、訴訟の処理を行った。
蜀漢の丞相(首相)であった諸葛亮(孔明)が亡くなると、
是儀は孫権の命で蜀に使いし、両国の同盟を固めた。
のちに尚書僕射(尚書台の副長官)を拝命した。
訊 問
――もとの江夏太守刁嘉が、国政を誹謗している。
典校郎の呂壱がそう誣告すると、孫権は怒り、刁嘉を捕えて獄につないだ。
是儀は、刁嘉に連坐して訊問を受けた。
刁嘉に連坐したほかの者らはみな呂壱を畏怖し、
「刁嘉が国政を誹謗したのを聞いたことがある」
と、供述したが、是儀だけは、
「そんなこと、聞いたことがない」
と、いい切った。
そのため、是儀は連日にわたり問いつめられた。
それが日を追うごとに厳しくなり、群臣が是儀の身を案ずるほどまでになった。
「いま、刀鋸がすでに臣の頸にあたってございます。それなのに、
どうして刁嘉のために事実を隠してみずから不忠者として死に、族滅の憂き目に遭わんといたしましょうや。
もし聞いたことがあるのなら、聞き知った経緯がありましょう」
そう応えた是儀は、責問に対して有り体に答え、供述を変えなかった。
その態様が孫権の心を打ったらしく、是儀は許され、刁嘉も罪を免れた。
その後、孫権は重臣らにこぞって諫められてようやく真実を悟り、
赤烏元年(二三八年)に呂壱を捕え、処刑した。
守 分
赤烏四年(二四一年)に孫登が亡くなり、翌年に孫和が太子に立てられて孫覇が魯王に封ぜられると、
是儀は孫覇の傅も兼ねた。
是儀は南宮(太子の宮殿)と魯王の宮殿が近くにあることを嫌い、
「魯王さまを都からお出しになり、お国の藩屏になさるのがようございます。
二宮の待遇は差をつけるべきで、上下の秩序を正せば教化の根本が明らかになります」
と、幾度となく上疏した。
是儀は傅として忠を尽くし、孫覇をよく諫めた。
是儀は職務に勤しむ一方、時事についての発言を控えた。
そのことを孫権から責問されると、
「聖主が上におわし、臣はその下で職分を守っているのでございまして、
危惧するのは職に耐えられないことであり、愚言を申し上げて陛下のお耳を汚そうとはおもうておりませぬ」
と、是儀は応えた。
是儀は恭謙な態度で人に接し、機会あるごとに見どころのある人物を引き立ててやり、
他人の短所をあげつらうようなことをしなかった。
また、是儀は数十年宮仕えをして、一度も過失を犯したことがなかった。
呂壱が重臣らを厳しく弾劾したが、是儀だけは告発されなかった。それゆえ、
「もしみなが是儀のようなら、法など必要ないな」
と、孫権を賛嘆させるほどであった。
清 貧
是儀は家産には興味がなく、他人から施しを受けず、住居も何とか暮らせる程度のものでしかなかった。
是儀の家の隣に大きな邸宅が建てられた。
孫権が行幸したおりにその大邸宅を望見し、
「あれはたれの邸か」
と、諮うたところ、左右の者が、
「是儀の家ではないでしょうか」
と、応えた。
「是儀は節倹ゆえ、きっと違うであろう」
孫権がそういって、調べさせたところ、果たして他の者の邸であった。
是儀は目が粗く粗末な服を着て、食は膳を重ねないような質素な暮らしを送りながら
貧窮にあえぐ者たちを救済していたので、家に貯蓄などなかった。
そんな是儀の暮らしぶりを孫権がききつけて是儀の家に行幸し、
「食べているものをみせよ」
と、いい、みずからそれを食すと嘆息し、俸禄や田宅を増やすよう命じた。
「そのようなことをなされますと、かえって戚いとなります」
是儀はそういって、何度も辞退した。
是儀は死に際し、
「素棺(白木の棺)を用い、遺体には平服を着せ、葬儀は簡略につとめるよう」
と、遺言し、八十一歳で亡くなった。
最期まで自分らしさを貫いた生涯であったといえよう。
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