皇帝の廃替を敢行しながらも功臣とされた外戚 関白の元祖 霍光(前漢)(5) 廃位
霍光は大司馬大将軍として、13年間昭帝を輔佐して善政を敷いた。
元平元年(紀元前74年)、昭帝が21歳の若さで崩御すると、
霍光らは昭帝の甥にあたる昌邑王劉賀を擁立した。
劉賀は昌邑から連れてきた寵臣を高位に昇らせて、霍光ら旧臣をないがしろにした。
霍光はこれを憂え、張安世や田延年らと大事を計った。
中国史人物伝シリーズ
霍光(1) 出世
霍光(2) 博陸侯
霍光(3) 権力争い
目次
朝 議
元平元年(紀元前七四年)六月癸巳(二十八日)、
霍光は丞相(首相)楊敞、御史、将軍、列侯、中二千石(高官)、博士を未央宮に召集し、
「昌邑王は昏乱しており、社稷を危うくしないかと恐れているが、どうであろうか」
と、告げた。
――皇帝を廃そう。
というあまりの大事を耳にして、満座はみな驚愕して色を失い、
「ええ、ええ」
と、いうばかりであった。
すると、田延年が進みでて、剣に手をかけながら、
「先帝が将軍に幼孤を委嘱なされ、天下を将軍に寄託なされたのは、
将軍の忠賢が劉氏を安泰にしてくれるとおぼしめしになってのこと。
いま、群下は沸き返り、社稷が傾こうとしております。
もし漢家の祭祀が絶えてしまうようなことになりましたら、
将軍は死後に何の面目があって地下で先帝にお目にかかるおつもりですか。
今日の議は、踵を旋らすわけにはまいりません。ためらう者があれば、臣がこの剣で斬らせていただきます」
と、すごんでみせた。
満座は、水を打ったように静まりかえった。
予想以上の効果に、
――うまくやりおったな。
と、内心ほくそ笑んだ霍光が、
「われは責められて当然じゃ。天下が匈匈として不安になっている以上、われは難を受けるべきじゃ」
と、謝ると、満座は叩頭し、
「万姓の命は、将軍にかかっております。ただ大将軍のご命令のままです」
と、いうしかなかった。
禁 門
霍光は群臣を引き連れて長楽宮にいる皇太后に謁見し、
「昌邑王は宗廟を承けるべきではありません」
と、申しあげた。
「わかりました」
そう応じた皇太后は、劉賀を召しだすと、みずからは車駕で未央宮の承明殿に行幸し、
「昌邑王の群臣を入れてはならぬ」
と、禁門の衛士らに詔した。
霍光は、禁門の中で劉賀の到来を待った。
やがて劉賀がお召しに応じて、輦に乗って未央宮へやってきた。
禁門を通り過ぎたとたん、門扇(門扉)に手をかけていた中黄門の宦者(宦官)らが門を閉じてしまった。
そのため、劉賀の群臣は門外に取り残されてしまった。
「どうしたのか」
劉賀がたずねると、霍光が跪いて、
「皇太后の詔がございまして、群臣を入れることができません」
と、応えた。
これを合図に、昭帝の近臣であった者らが劉賀を取り囲んだ。
むろん、かれらはみな霍光の息がかかった者ばかりである。
「おのれ、謀ったな」
と、叫ぶ劉賀をよそに、霍光は、
「謹んで警護せよ。にわかに物故したり自裁されたりすれば、われが天下に主殺しの名を負わされるからな」
と、左右を戒め、さらに、
「昌邑の群臣どもを、みな金馬門の外へ追い出せ」
と、家臣に命じた。
門外へ追い出された昌邑の群臣二百余人は張安世らにより収縛され、廷尉の詔獄へ送られた。
上 奏
劉賀は、昭帝の近臣であった者らに取り囲まれながら承明殿にはいった。
皇太后は珠襦(宝石で飾られた短衣)を着て、盛装して武帳のなかに坐っていた。
侍御数百人がみな武器をとり、戟をもった勇力の武士が殿下に立ち並んだ。
そして、霍光はじめ群臣が席次に従って殿上にあがると、劉賀はこわばった面持ちで皇太后の御前に伏した。
霍光と群臣が連名で上奏し、尚書令がそれを読みあげた。
「孝昭皇帝は早くに天下をお棄てになり、後嗣がおられませんでした。
礼に、人の後嗣になった者はその人の子である、とあります。
臣敞らは評議して、昌邑王が後を嗣ぐのがよろしいと考え、宗正(劉徳)、大鴻臚(史楽成)、
光禄大夫(丙吉)を遣り、符節を奉じて昌邑王を徴し、喪を典らせました。
しかし、斬縗(喪服)を着ても悲哀の心がなく、礼儀を無視し、道中では(肉を食べて)素食せず、
従官に女子を略奪させて衣車(覆いのある車)に載せて連れ去り、伝舎で同宿しました。
皇太子に立てられてからも、いつもひそかに雞や豚を買って食べ、
皇帝の璽印を大行(昭帝の柩)の前で受けながら、封をせずに人目にさらし、
従官にかわるがわる符節を持たせ、昌邑から連れてきた従官、騶(馬丁)、宰(料理人)、
官奴二百余人を禁闥(宮中)に引き入れ、いつもあそびたわむれ……」
「やめなさい」
皇太后が上奏を途中でさえぎり、
「人の臣子でありながら、こうまで悖乱であってよいものでしょうか」
と、嘆いた。
劉賀は、おもわず席を離れてひれ伏した。
廃 位
尚書令は、ふたたび続きを読んだ。
「荒淫で道を外し、帝王としての礼儀を失い、漢の制度を乱しました。
臣敞らがしばしば諫めても更めないばかりか、日ましにひどくなっており、
社稷を危うくし、天下を不安にさせはしないかと恐れてございます。
臣敞らは、謹んで博士臣孔覇、臣雋舎、臣徳、臣虞舎、臣射、臣倉と評議しましたところ、
みなこのように申しておりました。
いま、陛下は孝昭皇帝の後嗣となられながら、ふるまいが淫辟(放蕩淫乱)で度を超えております。
五辟(刑)のうち不孝より大きなものはない、とされます。宗廟は君よりも重うございます。
陛下はまだ高廟(高祖劉邦の霊屋)にお詣でになって命を受けておりませぬゆえ、
天序(皇統)を承け、祖宗の廟を奉じ、万姓を子とすることができませぬ。よって、廃すべきです、と。
臣敞ら昧死して申しあげます」
おそらく上奏に書かれた内容がすべて真実というわけではなかろう。
些細な過失のみを取りあげて誇張することで、劉賀が淫乱であると決めつけて、
廃位を正統化させようとしたのが真相ではないか。
劉賀の首が、わずかに上がった。しかし、
――虚言じゃ。
と、反駁しようにも、それが許されるような雰囲気ではなかった。
かれにとって、皇太后ふくめ満座が敵であった。なにしろ、皇太后は霍光の孫なのである。
たれからも異議が挙がらず、
「よろしい」
と、皇太后が裁可した瞬間、劉賀の廃位が決まった。
在位わずか二十七日であった。
この故事により、昌邑王は、後世、皇帝不適格者の代名詞として用いられるようになった。
引 導
霍光は劉賀を起たせて、皇太后の詔を拝受させた。
「天子に争臣七人あれば、無道といえども天下を失わず、ときいております」
劉賀はそう抗弁したが、霍光は、
「皇太后が廃すると詔されたのです。もう天子ではございません」
と、いって劉賀の手をつかみ、印璽と綬を解いて皇太后に奉上し、劉賀に手をかして殿を下り、金馬門を出た。
群臣が、霍光に随って劉賀を送った。
劉賀は西にむかって拝礼し、
「愚かゆえ、天下を任せてもらえなんだ」
と、嘆いてから、起って乗輿の副車に乗った。
霍光は劉賀を昌邑邸まで送り、
「王のおふるまいは、天に見放されてしまいました。
臣らは駑怯(愚かで気弱)にて、身を殺して王の御徳に報いることができませんでした。
臣は、王にそむいても社稷にそむけませんでした。どうか王にはご自愛ください。
もうおそば近くにお仕えすることはございますまい」
と、謝り、涕泣しながら去った。
寛 厳
「古は廃放された人は遠方へ屏けられ、政に関与させませんでした。
どうか王賀を漢中郡房陵県へお徙しになられますよう」
群臣がおこなった劉賀に追い打ちをかけるようなこの奏上に、
――手のひら返しが早いものじゃ。
と、霍光は苦笑しながらも、それに賛意を示さず、
「王賀を、昌邑にお帰しあそばされますよう」
と、皇太后に進言した。
失意のまま昌邑に戻った劉賀は、この後なお十五年生きたが、
昌邑王への復位は許されず、宣帝の御世に海昏侯に封ぜられることになる。
霍光は帝位から降ろした後ろめたさから、劉賀には情けをかけた。
しかし、劉賀の家臣に対しては厳しく臨み、
「王を輔導せず、悪におとしいれた」
として、捕縛していた二百余人をことごとく誅殺した。
かれらは、詔獄から刑場へゆく途中、
「斬るべきときに斬らなんだばかりに、こうなってしもうた」
と、大声で市中に呼ばわった。
シェアする