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中国史人物伝

『司馬法』の著者? 晏子に見いだされた兵法の大才 司馬穣苴(田穣苴)(春秋 斉)

「軍中において、将軍は王命であろうと従わない」

『三国志』や『項羽と劉邦』などの軍記物で、よく見るこの語は、

『史記』司馬穣苴列伝から出たものであろう。

司馬穣苴は、紀元前六世紀後半に在位した斉の景公に仕えた人物である。

管仲とならぶ斉の名宰相 晏嬰のときに活躍した人物といった方がわかりやすいであろうか。

かれに仮託して作られた兵法書『司馬法』には、

戦いをもって戦いを止めれば、戦うといえども可なり

故に国大なりといえども戦いを好めば必ず亡ぶ。

天下安しといえども戦いを忘れれば必ず危うし。

などの記述があり、後世に多大な影響を及ぼした。

中国史人物伝シリーズ

目次

田氏の庶流

穣苴は、斉の桓公のときに斉に亡命してきた陳の公子完(田完)の苗裔である。
景公の同母姉が田氏の当主である田無宇(田完の玄孫)に降嫁していた縁により、
田氏は景公から信頼されていた。
しかし、穣苴は田氏の庶流にあたり、卑賤であった。

大抜擢

斉は西から晋に、北から燕に攻められ、存亡の危機に瀕した。
そのようなおりに、穣苴は晏嬰の推挙を受けて景公に拝謁し、兵事についての諮問を受けた。
景公は穣苴の応えをたいへん気にいり、
「そなたを将にしよう。晋と燕をふせいでくれ」
と、いった。それに対し、穣苴は、
「臣は卑賤にて、君が臣を閭伍(民間)から抜擢して大夫(上級貴族)の上に置かれましても、
士卒は臣になつかず、百姓は臣を信ぜず、軽んじられましょう。
願わくは君の寵臣で国じゅうで重んじられている方を軍監(目付)にしていただきますれば、
うまくいくかと存じます」
と、申し出た。
「よかろう」
景公は気前よくそう応じ、寵臣の荘賈を穣苴の軍監につけた。

約 束

「旦日(明日)、日中に軍門にて会いましょう」
穣苴は、荘賈とそう約した。日中とは、太陽が南中する正午である。
翌日、穣苴は軍門に至ると、立表下漏して荘賈の到着を待った。
日時計と水時計を設置したのである。
太陽が南中した。
しかし、荘賈はあらわれない。
穣苴は、表を倒し漏を決した。日時計と水時計を壊して荘賈の遅刻を明らかにしたのである。
そして、穣苴は治兵(軍事演習)をおこない、全軍に軍規をいいふくめた。

軍紀を正す

夕になって、荘賈がようやくあらわれた。
「なにゆえ後れてきた」
と、穣苴が訊くと、荘賈は、
「面目ない。親戚が見送りにきてくれたゆえ、動けなんだ」
と、悪びれずに返した。
「将は命を受ければ家を忘れ、軍に臨んで軍令を発すれば親族を忘れ、
枹鼓(軍枹)を手にとればわが身を忘れるものだ。
いま、敵が深くわが国に侵攻し、邦内が騒動し、士卒が国境で難儀しておる。
君は寝ても覚めても落ち着かれず、食べたものの味すらおわかりにならなくなっておられる。
百姓の命は、みな君にかかっているんじゃ。見送りなど言い訳になるか」
穣苴は決然とそういうと、
「軍法に照らせば、後れてきた者はどうなるのか」
と、軍正(軍律の官)に問うた。
「斬刑に当たります」
それをきいて、荘賈の顔から一気に血の気が引き、
「疾く君に報せよ」
と、家臣に命じた。
穣苴は荘賈を斬り、三軍にふれて回った。これには、全軍が振慄した。

将 軍に在りては

久しくして、景公の使者が君命を携えて、
「王命じゃ。荘賈の処刑は、待たれい」
と、叫びつつ、軍中に馳せ入った。
「将は、軍にあっては君令も受けぬ」
穣苴はそう返してから、
「軍中では馬を馳せてはならぬ。いま、使者が馬を馳せていたが、いかがいたそうか」
と、軍正に問うた。馬が馳せれば軍中が動揺し、不測の事態が起こるとも限らない。
「斬刑に当たります」
それをきいて、使者の顔から一気に血の気が引いた。
「君の使いを殺すわけにはいくまいよ」
苦笑しつつそういった穣苴は、
「僕者と兵車の左駙、ならびに左驂を斬れ」
と、命じた。
使者が乗ってきた馬車には、御者と従僕が同乗していた。
御者を斬れば、使者が景公に復命できない。
そこで、御者の乗り位置である左側の添え木と副馬を斬って三軍にふれ回ったのである。
穣苴は、使者が去ってから軍を発した。

拊 循

穣苴は士卒の宿舎、飲食、健康観察や疾病の治療に至るまでみずから世話を焼き、
資粮(物資と食糧)をすべて士卒に分け与え、士卒と同じものを同じだけ食べた。
すると、三日後には、みなが先を争って出陣を希望し、病人までもが従軍を願い出るほどであった。
それを聞いて、晋軍と燕軍は引き揚げを開始した。
「追撃せよ」
穣苴は晋軍と燕軍に奪われた地をすべて取り戻してから引き揚げた。
穣苴は首都の手前までくると、全軍を解散させ、君命に従う意を示してから凱旋した。
景公は穣苴を郊外まで出迎え、
「よくぞ、いたしてくれた」
と、労をねぎらってくれた。
田氏は、ますます斉で重んじられるようになった。
それを快くおもわない高氏、国氏、鮑氏らが、景公の耳に中傷を吹き込んだ。
景公はそれを真に受けて、穣苴を遠ざけてしまった。
穣苴は、失意のうちに病を発して死去した。

司馬兵法

紀元前五世紀になると、田氏の権勢は君主をしのぐほどになり、
ついには太公望の子孫に取って代わり、斉の君主となった。
紀元前四世紀半ばに斉を治めた威王は、穣苴の兵法を取り入れて天下に覇を唱えた。
威王は諸大夫に古から伝わる司馬(軍事長官)の兵法を研究させ、その成果物に穣苴の兵法を加え、
『司馬穣苴の兵法』
と、名づけた。
これが、現在に伝わる『司馬法』であるとされる。

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