中隠を志向した閑居の達人 陶淵明や李白とならぶ飲酒詩人にして平安文化の恩人 白居易(白楽天)(唐)(1) 寒門
最期まで『白氏文集』を座右に置いて愛読したといわれる。
菅原道真の影響を受けたとされる『源氏物語』の著者紫式部は、
宮中で中宮彰子に『白氏文集』の講義をしたことを『紫式部日記』に記した。
紫式部とならび称される清少納言は、
「書(ふみ)は文集」
と、『枕草子』(二百十一段)に記し、
『白氏文集』を漢文の筆頭に挙げている。
『白氏文集』は、中唐の詩人
白居易(772-846)(あざなは楽天)
の詩を集めたもので、平安時代に日本に渡り、貴族に愛好された。
かれらが『白氏文集』を好んだのは、その作風もさることながら、
白居易の生涯や境遇に共鳴するところが多分にあったからではなかろうか。
中国史人物伝シリーズ
白楽天を敬慕した蘇東坡(蘇軾)
目次
世 情
紀元前六一八年に李淵(高祖)により建てられた唐王朝は、
それからおよそ百年後に在位した玄宗皇帝のもとで、
「開元の治」
と、呼ばれる安定した統治を実現させた。
ところが、天宝十四年(七五五年)に節度使の安禄山らが反乱を起こし、唐朝は混乱に陥った。
「安史の乱」
と、呼ばれるこの反乱は、九年に及ぶ大乱になったが、
郭子儀や李光弼らの活躍もあり、唐朝はなんとか乱を平定をすることができた。
だが、各地の節度使が自立して藩鎮といわれる勢力を築くようになり、
唐朝はその勢いを抑えることができなくなっていた。
そのような時勢のなかにあった大暦七年(七七二年)正月二十日に、
白居易は、父白季庚、母陳氏の二男として鄭州新鄭県で生まれた。
寒 門
白氏は、太原を本貫とした。
白居易の曾祖父である白温のとき、長安から東北に六里(約三・三キロメートル)ほど離れた下邽に移住した。
白居易の祖父の白鍠と白季庚の父子は儒学を重んじ、科挙の明経科に及第して仕官した。
当時、官僚登用試験である科挙は、明経科と進士科の二科からなり、
郷試(一次試験)と省試(二次試験)の二段階があった。
明経科は、経書に通じているかどうかを試すもので、詩賦の作成能力も試される進士科よりも劣位とされ、
朝廷で高位につくことができず、地方の役人を転々とさせられた。
白居易の祖父の白鍠も同様で、地方の役人を歴任し、河南府鞏県の県令で官を終えた。
貴族制度の影響が強い唐代において、白氏のような低い家柄は、
「寒門」
と、呼ばれた。
流 浪
白居易は鄭州で幼少時を過ごしたようであるが、
建中三年(七八二年)、十一歳のときに各地で節度使の反乱が起こったため、
父の従兄弟の一家が住んでいた徐州の符離に身を寄せ、さらにその翌年には、長江を渡り越州へ避難した。
それから二十年以上、白居易は各地を流浪することになる。
しばらくすると、家族は父の白季庚が別駕(副知事)を務める徐州へ移ったが、白居易は江南にとどまった。
寒門の出であっても、科挙を突破すれば出世できることを知ったからである。
進士科の試験では、詩と賦の出来栄えが重視される。
そこで、白居易は進士科及第のため、詩賦の作成に励んだ。
貞元四年(七八八年)に、白季庚が江南にある衢州の別駕に転任した。
そのとき、白居易も衢州へゆき、家族とともに暮らしたのではなかろうか。
白楽天
二十歳をむかえた貞元七年(七九一年)に、白居易は
「楽天」
というあざなをもった。
楽天というのは、『易経』繋辞上伝にある
――楽天知命、故不憂(懸命に自分を磨き、天命を知ることができれば、憂えることはない)
から取ったものである。
以後、かれは白楽天と呼ばれることになるが、ここでは白居易で通す。
このころ、かれは符離にいる父の従兄弟の家に寄宿して試験勉強に勤しんだ。
その後、貞元八年(七九二年)に、白季庚が襄州別駕に転任すると、白居易もその翌年に襄陽に移った。
ところが、貞元十年(七九四年)に白季庚が襄陽の官舎で亡くなり、
遺された一家はたちまち困窮してしまった。
自立の萌芽
白居易は四人兄弟の二男で、兄の幼文(生年不明)、四歳下の三男白行簡および十二歳下の四男幼美がいたが、
末弟の幼美は二年前(七九二年)に、符離においてわずか九歳で病死してしまっていた。
服喪中、一家は親族から援助を受けながら暮らし、
喪を除いた後の貞元十三年(七九七年)に、母の陳氏は白行簡とともに洛陽へ移った。
このころ、兄の幼文が、饒州浮梁県の主簿(庶務課長)になった。
貞元十四年(七九八年)、白居易も鄱陽湖の東にある浮梁(景徳鎮)へ移り、兄のもとに身を寄せた。
翌貞元十五年(七九九年)の春に、
――母上が病臥した。
という報せを受けた。
「見舞いにいってもらえまいか」
と、兄から頼まれた白居易は、兄が購入した米を馬車に積んで浮梁を発し、洛陽にいる母を見舞った。
「秋に、郷試を受けます」
白居易がそう告げると、
「父君もきっとみておられますよ」
と、母がいってくれた。
見舞いに訪れたはずなのに、かえって励まされてしまい、
恥ずかしいやら気まずいやらで複雑な気分になりつつ白居易は洛陽をあとにした。
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