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中国史人物伝

建武の蕭何 剛柔使い分けて乱世を生き抜いた功臣 寇恂(後漢)(2) 剛と柔と

寇恂(1)はこちら>>

河北平定中の劉秀の部将になった寇恂は、劉秀と鄧禹から

――蕭何のような人物である。

という評価をされ、河内太守に任じられた。

その期待に応え、寇恂は更始帝の大軍の侵攻さえもはねのけてみせ、劉秀を大いに喜ばせた。

劉秀は諸将からの勧めもあり、建武元年(25年)6月、帝位に即いた。これが光武帝である。

光武帝は河北を平定し、洛陽へ軍をむけた。

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目次

保 身

寇恂は、(人がひく)輦車や驪駕(二頭立ての馬車)を使って糧食を絶やすことなく劉秀の軍陣に送り続けた。
そんな寇恂を、光武帝はしばしば策書で慰労した。
そのようなおり、同門であった茂陵の董崇から、
「主上は即位なされましたが、天下はまだ定まっておりません。それなのに、
君侯は大郡にいて、内は人心を得、外は蘇茂を破り、威は隣敵を震えさせ、功名は鳴り響いております。
これではひとに妬まれて讒言に遭ってしまいますぞ。
むかし、蕭何は関中を守り、鮑生の言に悟って一族をみな従軍させ、高祖(劉邦)を悦ばせました。
いま、君が率いている部下は、みな宗族昆弟ばかりです。前人を鏡戒とすべきではないでしょうか」
と、説かれた。
寇恂は、はっとした。
――われは、陛下に疑われていたのか。
故事を知っていても、それを処世に活かしていない。
「お教えのほど、しかと承りました」
生命びろいしたような気になった寇恂は、疾と称して仕事をしなくなった。
光武帝が洛陽を攻めようとして河内に至ったときに、寇恂は従軍を願いでたが、
「まだ河内から離れるべきではない」
と、聴き容れてもらえなかった。
その後も何度も固く請うたものの、許しが出ない。
そこで、兄の子寇張と姉の子谷崇に突騎兵をつけて先鋒にいれてもらうよう願いでた。
光武帝はこれを容れ、ふたりを偏将軍とした。

潁川太守

建武二年(二六年)、寇恂は、上書した者を獄に繋いで拷問した罪により河内太守を罷免された。
このとき、潁川の厳終と趙敦が一万余の兵を集め、密の賈期とともに潁川郡内を荒らし回った。
寇恂は河内太守を免ぜられてから数か月で、こんどは潁川太守を拝命し、
破姦将軍の侯進とともに厳終らを撃ち、数か月で賈期の首を斬り、郡中をことごとく平定した。
その功により、寇恂は雍奴侯に封じられ、一万戸を食んだ。
寇恂が潁川太守を務めて一年で、郡中は治まり、盗賊の侵寇がなくなった。

刎頸の交わり

このころ、執金吾(警視総監)の賈復が汝南郡を平定した。
その征途、賈復の部将が潁川郡で人を殺すと、寇恂はその部将を捕らえ、獄に繋いだ。
このころはまだ王朝の草創期で、軍中で法を犯しても許されることが多かったが、
寇恂は賈復の部将を市にさらして刑戮した。
賈復はこのことを恥じ、都への帰途潁川郡にはいるなり、
「われは寇恂と同列の将帥であるのに、おとしいれられた。
大丈夫たる者、怨みをいだきながらそれに報いないでよいものか。
寇恂に会ったなら、かならずやこの手で斬り殺してやる」
と、息巻いた。
それをきいて寇恂は、賈復に会うことを避けた。
甥の谷崇が心配して、
「われは将です。剣を帯びておそばに侍することができます。
にわかに変事が起きたとしても、十分対応できます」
と、申しでてくれたが、寇恂は、
「そうではない。むかし、天下の秦王すら畏れなかった藺相如が廉頗に屈したのは、国のためであった。
区々たる趙ですら、このような義行があったんじゃ。このことを忘れてよいものか」
と、諭すようにいった。
寇恂は属県に命じて飲食物や酒を用意させ、賈復の軍が潁川郡内にはいると、各人に二人分の食事を提供した。
寇恂はかれらを道中に迎えにでたが、途中で疾と称して還り、賈復と会うのを避けた。
「逃げやがったな――」
賈復は兵を整えて寇恂を追わんとするも、吏士らがみな酔ってしまったため、
結局、寇恂に会わないまま潁川郡を通り過ぎてしまった。
この間に、寇恂が谷崇を洛陽に遣って事情を上聞させたところ、光武帝からお徴しをうけた。
寇恂は洛陽へゆき、光武帝に謁見したところ、賈復が先に着坐していた。
寇恂が起って避けようとしたのを、光武帝が見かねて、
「天下はまだ定まっていないのに、両虎が私闘などしてよいものか。今日、朕が仲裁しよう」
と、いった。
皇帝にそこまでいわれては、反目をつづける道理などない。
ふたりはともにならんで飲食し、車に同乗して宮殿から退出した。
もはやふたりのあいだには、何のわだかまりもなかった。

汝南太守

建武三年(二七年)、寇恂は汝南太守を拝命し、驃騎将軍の杜茂とともに盗賊を討つよう命じられた。
寇恂は盗賊を平定し、郡中を平穏にした。
学問好きな寇恂は、郷校を修理して生徒に教えたほか、
『春秋左氏伝』を修めた者を招聘し、みずから教えを受けた。

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