物語では虞翻に見限られ、孔明に論破されて憤死した儒家官僚 王朗(三国 魏)(3) 憂国の士
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魏王朝を開いた曹丕(文帝)の治世の後半は、
太尉 鍾繇
司徒 華歆
司空 王朗
と、曹操のときから仕えた名臣が三公の座を占めた。
「この三公は、一代の偉人じゃ。後世このような三公はあらわれないんじゃないか」
と、曹丕は誇っていった。
ときに、王朗は七十歳をとうに超えていたと思われる。
物語の『三国志』は、老齢の王朗に出陣させ、戦場で諸葛亮孔明と論戦させる。
ここでの登場は、王朗が孔明の偉大さを喧伝するのに十分な大物であったからといえよう。
中国史人物伝シリーズ
目次
独行の君子
黄初四年(二二三年)に、鵜鹕(ペリカン)の群れが霊芝池に集った。すると、
「独行の君子を挙げよ」
という詔勅が、公卿に下った。独行の君子とは、世俗に左右されない立派な人物をいう。
王朗は師であった楊賜の子で光禄大夫であった楊彪を推薦し、疾と称して司空の位を楊彪に譲った。
(曹丕が魏王になった際、楊彪は太尉任命の打診を受けたものの、辞退していた。)
曹丕は楊彪のために属吏を置き、三公に次ぐ位を与えた。
曹丕が詔を下し、王朗に職に復すよう求めてきたので、王朗は司空に復帰した。
不望蜀
建安末に蜀呉の嫌隙が大きくなると、孫権が魏に使者を遣わしてきて藩臣と称してきた。
黄初三年(二二二年)に劉備が呉に攻めこむと、詔がくだされて、
「兵を起こして、呉とともに蜀を取るべきか」
と諮問された。これに対し、王朗は、
「天子の軍は、華山や泰山よりも重みがございます。
坐して天威を曜かせ、動かざること山のごとくするのがようございます。
もし孫権がみずから蜀賊と相対峙し、長期にわたって奮戦しましても、
智略も兵の強さも同程度でございますゆえ、すぐに決着がつきますまい。
呉が優勢になるのを待ち、それから慎重な将を選んで寇賊の侵攻を待ち受け、
時を見計らったのちに動き、地を択んでゆけば、一挙に決着をつけられましょう。
いま、孫権の師旅はまだ動いておりません。それなのにわが軍が呉軍を助けて先に戦ういわれはございませぬ。
それに雨が多く、兵を動かす時ではございませぬ」
と、意見した。
曹丕は王朗の計を容れ、呉蜀の戦況を見守ることにした。
出師を諫む
孫権が子の孫登を魏に遣り、曹丕に近侍させると約束していたが、まったくその気配をみせなかった。
そこで、黄初三年(二二二年)に曹丕は許昌へ徙り、おおいに屯田をおこなったのち、
軍旅をもよおして呉を伐とうとした。
王朗は上疏して諫めた。
「いま六軍は戒厳令を布いてございますが、臣が恐れるのは、人民が聖旨を十分に理解しないまま、
国家が孫登が来ないことに愠って兵を起こそうとしている、とおもうのではないか、ということです。
兵を出して孫登がくれば、動かしたものが大きいわりにやってきたものは小さく、
慶ぶほどのことではございません。
孫権に孫登を遣わす気がなければ、人民は憂悶するのではないでしょうか。
臣が愚考いたしまするに、別働の諸将に、各自禁令を奉り、
持ち場を慎んで守るよう勅命を下されるのがよろしいかと存じます」
それでも曹丕は軍を発したが、呉に敗れて撤退し、孫登が魏に入朝することもなかった。
民の労苦を痛む
黄初七年(二二六年)、曹丕が亡くなり、曹叡が即位すると(明帝)、
王朗は蘭陵侯に進められ、五百戸を加増され、従前とあわせて千二百戸となった。
王朗は使者として鄴へゆき、文昭皇后(曹叡の生母甄夫人)の陵に詣でたが、
道すがら百姓が生活に難儀しているように見受けられた。
それなのに、曹叡は宮室の修営をさせている。
王朗はこれを憂えて上疏し、
「陛下はご即位なされてから恩情のこもった詔をしきりに発布なされ、
百姓万民で欣ばないものがございません。
臣は先ごろ使いを承って北へ参りましたが、往復の道路で徭役が多いことをきき知りました。
そのうち免除省減できるものははなはだ多うございます」
と諫め、農耕に努め、富国に励むよう説いた。
過保護は禁物
ときに、皇子の夭折がたびたびであった。王朗はこれを憂えて、
「数多の男子を設けるには、特定の女人に集中するのがよく、女人の数を増やすのはどうかと思います。
それに、皇子様は幼少のみぎりからいつも温かくした褥でお過ごしなされております。
いつも温かくすれば、柔肌やひ弱なおからだにとってよろしくございません。
そのために災難を防ぎきれず、危機に陥りやすいのです。
皇子様の幼少時の縕袍をあまり厚くなさりませぬよう」
と、上疏して忠告した。
過保護に育てれば、からだが強くならない、というのである。
明帝は返書で、
「この上なく忠義な者は文辞が篤く、愛の大きな者は言が深い。
君はすでに思慮を労し、手ずからそのような書をくれた。
善言を何度も読み返し、欣然としたことこの上もなかった。
朕の継嗣がまだ立てられないのが、君の憂えになっている。
つつしんで至言を納れ、有益な箴言をきこうとおもう」
と、感謝の意を綴った。
誉 聞
王朗は黄初七年(二二六年)十二月に司徒になり、太和二年(二二八年)十一月に亡くなった。
王朗は、『易』『春秋』『孝経』『周官』(『周礼』)の伝(注釈)を著した。
『易伝』は正始六年(二四五年)に学官に立てられ、官吏登用試験の試験科目になった。
孫女の王元姫が司馬昭に嫁いで司馬炎を生み、王朗の血胤は次代の王朝に受け継がれた。
孔明との論戦
王朗といえば、戦場で諸葛孔明と論戦し、論破されて憤死した印象が強いが、むろんこれは創話である。
どのような背景からこの話が創られたのであろうか。
まずは、孔明が第一次北伐を敢行し、街亭の戦いがあった年に王朗が死去したことが挙げられる。
王朗は親交のあった蜀の許靖に書翰を送り、旧交をあたためるとともに、魏への帰服を勧めたことがある。
また、王朗は黄初四年(二二三年)に劉備の死をきくと、孔明に書翰を送り、天命と人事を説き、
国を挙げて降伏するよう勧告した。
おなじ徐州出身ということもあり、話せばわかると考えたのかもしれない。
しかし、孔明からの返事はなかった。
じつは、華歆も同様のことをおこなっていた。だが、華歆の没年は王朗の死から三年後のことであった。
これらを総合して、王朗を退場させる場面が創られたのではなかろうか。
孟達が徐晃を射殺した話といい、蜀軍の快進撃に符合させた絶妙な構成であるといえよう。
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