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中国史人物伝

皇帝の廃替を敢行しながらも功臣とされた外戚 関白の元祖 霍光(前漢)(3) 権力争い

霍光(1) はこちら>>

霍光(2) はこちら>>

幼い昭帝を輔政することになった霍光とは、どんな人物であったのか。

都人士たちは知りたがった。

霍光はそれまで外戚として武帝に近侍し、政権の中枢にいなかった。

そのため、政治方針はおろか、人となりすらわからなかったのである。

霍光の人となりは、

「沈静詳審」(霍光金日磾伝)

と、『漢書』に記される。落ちついていて慎重であったという。

身長は七尺三寸(約168cm)と大柄ではないが、

白皙で顔かたちが大きくはっきりしており、美しいひげをたくわえていた。

殿門に出入りする際には、いつも決まっておなじ場所で立ち止まっていた。

郎官や僕射らがひそかに目じるしをつけておいたところ、尺寸の狂いもなかった。

中国史人物伝シリーズ

目次

御 璽

あるとき、殿中で奇怪なことがおこり、群臣はひと晩じゅうおどろき騒いだ。
――万一に備えねばならぬ。
そうおもった霍光は、尚符璽郎を召して、
「御璽を、これへ」
と、命じたが、
「なりませぬ」
と、拒まれた。
「ならば」
霍光が御璽を奪い取ろうとすると、尚符璽郎は剣に手をかけ、
「臣の頭を得ることができても、御璽はそうはまいらぬ」
と、いい放った。
「みあげたものよ」
霍光は尚符璽郎の挙措を称賛し、つぎの日に詔を下し、尚符璽郎の秩禄を二等級加増した。
これをきいて、みなが霍光を称めた。

立 后

霍光と上官桀は、たがいに親しみあった。
霍光は長女を上安桀の子の上官安に娶わせ、女子が生まれた。
霍光が休沐(五日に一回の休暇)で宮中から退出すると、
上官桀がすぐに宮中にはいり、霍光に代わって政務を決裁した。
そんななか、
「女を宮中にいれたいのですが」
と、上官安が霍光に伺いを立ててきた。しかし、
「まだ幼すぎる」
と、諾わなかった。
霍光の孫でもある上官安の女は、まだ五歳になったばかりである。
霍光の反応は妥当であろう。
しかし、上官安は諦めなかった。
昭帝を奉養していた鄂邑公主を動かそうとしたのである。
鄂邑公主は素行が悪く、そのころは丁外人を寵愛していた。
上官安は、丁外人と親しかった。
そこで、公主を説いて女を入内させてもらえるよう丁外人に依頼した。
そのかいあって、安の女は後宮にはいって婕妤(側室)となり、数月もしないうちに皇后に立てられた。
始元四年(紀元前八三年)三月甲寅(二十五日)のことである。
昭帝は十二歳、皇后は六歳になったばかりであった。
皇后の父になった上官安は票騎将軍となり、桑楽侯に封ぜられた。

反 目

上官桀・上官安父子は、鄂邑公主と丁外人に報いるべく、ふたりを正式な夫婦にしようと動いた。
漢朝の先例では、公主が降嫁する相手は列侯でなければならなかった。
そこで、ふたりは、丁外人を封建するよう求めたが、
「功なき者に爵位を与えるわけにはゆかぬ」
と、霍光は許さなかった。
すると、こんどは、丁外人を光禄大夫にしてほしいと要求してきた。
光禄大夫になれば、皇帝の召見を得られるからである。
だが、霍光は、それさえも許さなかった。
この件で、鄂邑公主はおおいに霍光を怨み、上官桀父子は慚じた。
上官桀は武帝のときに太僕となっており、すでに九卿(大臣)に列なり、霍光よりも上位にあったばかりか、
いまや父子ともに将軍となり、皇后は上官安の女であった。
――霍光など、皇后の外粗父にすぎぬではないか。
こうして、両者は反目しあい、権勢を競うようになった。

第二次燕王の乱

燕王旦は昭帝の兄でありながら帝位に即けなかったのを、いつも怨んでいた。
御史大夫(副首相)の桑弘羊は、酒や塩鉄の専売制度を確立し、国家に利をもたらした功を誇り、
子弟のために官を得ようとするも許されず、霍光を怨んだ。
同類は相集うものであるらしい。
霍光を怨む鄂邑公主と桑弘羊、霍光と権勢を競う上官桀父子が燕王と通謀し、
霍光を罪におとしいれようと画策した。

昭帝の信頼

「燕王がわれの罪を告発しただと――」
休沐の最中にそうきかされた霍光は、翌朝、
昭帝がおわす御殿の前にある西閣の画室にとどまり、参内しなかった。
詔があって召されてから参内し、冠をぬぎ、頓首して罪を謝した霍光に、
「将軍よ、冠をつけよ。朕はこの書が詐であることを知っている。将軍に罪はない」
と、昭帝ははっきりとした口調でいい切った。
――陛下は、そこまでわれのことを。
霍光は、からだがほてるのを感じた。
上書をした者が逃げたので、たいへん厳しい追捕がおこなわれた。
上官桀らは懼れて、
「なにもそこまでしなくても」
と、申しあげたが、昭帝は聴きいれなかった。
その後、霍光を譖る者があった。
「大将軍は国家の忠臣で、先帝から後事を委嘱された方じゃ。
それをあえて毀ろうとする者があれば、罪に問おう」
昭帝がそう怒声を放つと、以後、讒訴は止んだ。

善 政

元鳳元年(紀元前八〇年)九月、
「上官桀、上官安、桑弘羊らが通謀し、長公主(鄂邑公主)が大将軍を酒宴に招いて殺し、
帝を廃して燕王を立てようとしております」
と、霍光の故吏であった諫大夫の杜延年から上聞があった。
事が露見し、霍光は上官桀、上官安、桑弘羊、丁外人らをことごとく誅殺し、燕王旦と鄂邑公主は自殺した。
こうなると、霍光を脅かす勢力がなくなり、霍光の威は海内を震わせた。
――専制すれば、終わりはよくなかろう。
そう考える霍光は、昭帝に申し上げて張安世を右将軍光禄勲にしてもらい、おのれの輔佐役にした。さらに、
――主上が元服なされたら、聴政の席についていただこう。
と、心に決め、功により太僕に昇った杜延年の輔佐も受けつつ寛治を心がけた。
元鳳四年(紀元前七七年)に、十八歳に達した昭帝が元服した。
八尺二寸(約百九十センチメートル)という長身に育った昭帝は、
霍光が政権の奉還を申しでようとするまえに、
「今後も、大将軍に政をお任せする」
と、変わらぬ信頼を口にした。
霍光の摂政は十三年におよび、民の暮らしは充実し、四方の夷は漢朝に来聘して服従した。

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