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中国史人物伝

秦最後の名将 章邯(秦)(3) 雍王

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紀元前207年、趙の鉅鹿城を包囲していた王離率いる秦の主力軍が、

十分の一に満たない項羽の軍に大敗した。

これを境に、秦と東方諸侯の力関係が逆転する。

都では、宦官の趙高が丞相(首相)の李斯を殺し、丞相の座を取って替わっていた。

章邯は項羽軍と戦っては退却するということをくり返し、二世皇帝から譴責された。

章邯は弁明のため、司馬欣を咸陽に遣った。

しかし、趙高はおのれの保身のため、章邯を誅殺しようとしていた。

前にも後にも敵がいる。

進退窮し、章邯は苦悶した。

中国史人物伝シリーズ

目次

名将の運命

進退ままならずに苦悶する章邯のもとへ、趙の将軍陳余から書翰がとどけられた。
その書き出しで、章邯はいきなり胸を衝かれた。
「白起は秦の将となり、南に楚の鄢や郢を兼併し、北に趙の馬服(趙括)を阬とし、
数えきれぬほど城を攻め地を略したのに、死を賜りました。
蒙恬は秦の将となり、北に戎を逐い、楡中の地を数千里も開いたのに、陽周で斬られました」
秦は、名将をぞんざいに扱ってきた。
これは、章邯も否定できない事実である。
「将軍が秦の将になってから三年、十万もの士卒を失いながら叛乱を鎮圧できないばかりか、
諸侯がますますならび起ころうとしております。
趙高は久しく諛い仕え、事態が急迫すると、誅を恐れ、法をもって将軍を誅して責任を逃れ、
他の者に代えることで禍から免れようとしております。
将軍は久しく都の外におり、朝廷の内に将軍と敵対する者も多いので、
功があっても誅され、功がなくても誅せられましょう。
もはや天が秦を亡ぼそうとしているのは、みなわかっているではありませんか。
いま、将軍は内にあっては直諫することができず、外にあっては亡国の将となり、
孤立して身を長らえようと望まれるのは、なんと哀しいことではありませんか。
将軍はどうして軍頭をめぐらせて諸侯と兵を合わせ、南面して孤(諸侯の一人称)と称せられないのですか。
身を斧質に伏せ、妻子が殺されるのと、どちちがよいのですか」

降 伏

書翰を読んで、章邯は嘆息した。
陳余の説諭は、理にかなってはいる。
降伏するのが賢明であるのは理解できる。
だが、おじの項梁を殺したわれを、項羽が受けいれてくれようか。
章邯は狐疑したあげく、
――降るにしかず。
と、肚を決め、ひそかに軍候の始成を項羽のもとへ遣わして、反応をさぐらせた。
降伏するにしても、できるだけ有利な条件で降伏したいと望むのが、人情であろう。
しかし、交渉が整わぬうちに、項羽の部将蒲将軍が漳水を渡って攻めてきて、秦軍は敗れた。
さらに、項羽の攻撃を受け、漳水の支流汙水のほとりで戦って大敗した。
――降伏に条件などつけるな、ということか。
そう感じた章邯は、項羽に使者を遣り、盟約を申しいれ、承諾を得た。

苦 衷

紀元前二〇七年七月、章邯は洹水の南にある殷墟のあたりで項羽と盟約した。
盟約が終わると、章邯はおもわず流涕し、眼前にいる二十六歳の部将に苦衷を吐露した。
項羽は章邯に同情し、
「案ずるな。そこもとを、雍王とする」
と、告げた。雍は関中の古名であり、章邯を秦の王にしようというのである。
そうきかされて、章邯は複雑なおもいがした。
秦を倒さない限り、章邯は関中の王にはなれない。
これが本望であったのか。
ともかくも、章邯は二十余万の秦兵をひきつれて降伏した。
項羽は章邯を楚の軍中におき、司馬欣に秦軍を率いさせて、諸侯の軍を先導させた。
新安に至ると、
「秦の吏卒はわれらを襲おうとしたので、始末した」
と、項羽から告げられた。
二十余万の兵が、一夜にして消えたという。
章邯は、ことばが出なかった。

趙高の死

章邯が項羽に降伏した翌月、趙高は二世皇帝にせまり、死に追いこんだ。
その後、趙高は王に擁立した子嬰に殺された。
子嬰は在位わずか四六日で劉邦に降服し、秦は滅亡した。
紀元前二〇六年一月、項羽は咸陽にはいり、子嬰はじめ秦の王族を処刑した。
ところで、睡虎地で見つかった秦代の墓から出土した『趙正書』によれば、
章邯が秦に攻め入って趙高を殺した、とされる。
この記事の真偽のほどは定かではないが、秦を攻める側になったのは本意ではなかったにせよ、
趙高を殺したのであれば溜飲を下げたであろう。

雍 王

紀元前二〇六年二月、章邯は項羽から雍王に封じられ、咸陽以西の地の統治を任された。
富貴を得たものの、章邯は悦べなかった。
――王になりたいがために、働いていたわけではない。
項羽は関中を三分し、司馬欣を塞王、董翳を翟王とした。
秦人に秦人を治めさせようとしたのであろう。
加えて、漢中に封じられた劉邦の進出を封じようとした。
しかし、この人事は適切とはいえなかった。
秦の民心は、三王ではなく、関中に一番乗りし、
法三章など寛仁の施策を展開した劉邦にむいていたからである。

滅 亡

紀元前二〇六年四月、諸侯は関中から去り、おのおの封国へむかった。
数か月後、漢軍が故道から雍に襲いかかってきた。
章邯は塞と翟に報せるとともに、弟の章平に陳倉で漢軍を邀え撃たせたが、敗れてしまった。
その後、章平は好畤に踏みとどまって戦ったが、ここでも大敗し、北地へ走った。
そして、章邯は都の廃丘で漢軍に囲まれた。
「耐えておれば、塞と翟から援軍がこよう」
ところが、塞と翟は漢に降ってしまった。
むろん、章邯は項羽にも危急を報せていた。
しかし、項羽は章邯を救援せずに、斉に侵攻してしまった。
紀元前二〇五年正月、章平が漢軍に捕らえられた。
それでも章邯は廃丘に立て籠り、抵抗をつづけたが、六月に漢軍に城を水攻めにされた。
――もはや、これまでか。
章邯は諦観し、みずから波乱の生涯を閉じた。
秦が本当に滅亡したのは、このときであったかもしれない。

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