盗賊か乱世の梟雄か 孔子の好敵手 魯国を牛耳った下剋上の代表 陽虎(陽貨)(春秋 魯)(3) 野心
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孔子と因縁があったことで知られる陽虎(陽貨)は、
魯の宰相である季孫氏の家宰(家老)になると、
紀元前505年に主君の家督継承に端を発して
政変(陽虎の乱)を起こし、魯国の事実上の支配者になった。
以来、陽虎は魯で専制をおこない、定公や三桓を使役して軍旅を催した。
だが、陽虎の野望は、それだけでは収まらなかった。
中国史人物伝シリーズ
目次
陰 謀
定公八年(紀元前五〇二年)、専制をはじめてから三年になり、政権運営に自信をもった陽虎は、
季窹(季孫斯の弟)
公鉏極(季孫斯の曽祖父である季孫宿の玄孫)
公山不狃(子洩、費邑の宰)
叔孫輙(叔孫州仇の庶子)
叔仲志(叔孫州仇の族弟)
と結託し、野心をあらわにした。
かれらはみな、三桓氏の家中の不平不満分子であった。
季窹、公鉏極および公山不狃は、季孫斯に疎んじられていた。
叔孫輙は父の寵愛を受けられず、叔仲志は処遇に不満があった。
そんな五人が語らい、いまや飛ぶ鳥を落とす勢いの陽虎を頼ってきた。
気を大きくした陽虎は、三桓を追放し、季窹を季孫氏の当主に、叔孫輙を叔孫氏の当主に据え、
みずからは孟孫氏(仲孫氏)の当主に取って替わらんともくろんだ。
敗 戦
禘 祭
「先君の文公は、お父君の僖公が閔公の庶兄でありましたゆえ、僖公の廟を閔公の廟の上になさいましたが、
それでは昭穆を乱してしまいます。正すべきです」
陽虎は定公にそう進言し、閔公と僖公の昭穆の順を正して太廟で祀り、
――わが望み、かないますよう。
と、野望の成就を祈り、十月辛卯(二日)にさげられた僖公の霊を慰めるべく僖公をおおいに祀った。
そして、壬辰(三日)に東門外の蒲圃で享宴をもよおして季孫斯を殺そうとたくらみ、
さらに叔孫氏と孟孫氏を攻めるべく、
「癸巳(四日)至れ」
と、命じ、都邑の兵車に出動の準備をさせた。
壬辰、陽虎は蒲圃にはいり、季孫斯がくるのを待った。
しかし、いつまでたっても季孫斯はあらわれなかった。
――まさか、感づかれたのか。
いやな予感に襲われたちょうどそのときに、季孫斯の後尾につけていた従弟の陽越の家臣があらわれた。
「主は、いかがいたした」
「懼におよび、孟孫氏の邸へ馳せてゆきました」
「おのれっ」
陽虎は急ぎ参内し、
「孟孫が、謀叛人を匿ってございます」
と、騒ぎたて、定公と叔孫州仇を威して、
「孟孫氏を伐て」
という君命を発してもらった。
公斂陽
陽虎が定公を奉じ、季孫氏と叔孫氏の兵を率いて孟孫氏の邸を襲撃しようとしたとき、
孟孫氏の領地である成邑の宰を務める公斂処父(公斂陽)が、成邑の兵を率いて上東門から攻め入ってきた。
「蹴散らせ」
陽虎は、南門の中で成邑の兵と戦った。
陽虎が帥将旗をみつけ、
――あれが、公斂陽だな。
と、判じた瞬間、公斂処父と目があった。
「陽虎、見参」
そうよわばって突進してきた公斂処父と、陽虎は戈矛をあわせた。
数十回あわせると、公斂処父の動きが鈍くなってきた。
すると、公斂処父は、兵車のむきを返させて、
「退け」
と、命じ、門外へでた。
「追え」
陽虎が成邑の兵を追撃すると、公斂処父は棘下で踏みとどまり、ふたたび戦った。
ここでも陽虎は公斂処父と戈矛をあわせたが、両者の優劣は歴然としていた。
盗 竊
「これで終わりじゃ。死ねっ――」
と、陽虎が公斂処父に斬りつけようとした。
ちょうどそのときに、
「陽虎、敗れたり――」
という叫び声がした。
「なんじゃと」
陽虎が声がするほうに振り向くと、そこに叔孫州仇の姿があった。
「かかれっ」
叔孫氏の兵が、陽虎の手勢に襲いかかった。
「なんだと――」
陽虎は周到に謀計を進めてきたつもりであったが、叔孫州仇に戈矛を向けられるとは思わなかった。
――かくなるうえは、君を。
そうおもった刹那、叔孫州仇が定公を連れて離れてゆきだした。
近衛兵が、定公に随って戦場から去ってゆく。
こうなると、陽虎が逆賊になってしまう。
「なんたることじゃ」
陽虎が唖然としていると、孟孫氏の兵が襲いかかってきた。
――もはや、これまでか。
陽虎は甲を脱いで公宮へゆき、先日先君の祭祀に供えた宝玉と大弓を盗みだした。
宝玉と大弓は、周公旦の子伯禽が魯に封じられた際に周王から賜ったものと伝えられ、
いわば魯公室の伝国の宝器であった。
このことは、『春秋』(定公八年経)に、
――盗、宝玉・大弓を竊む。
と、記された。陽虎を賤しんで、「盗」と記したのである。
(陽虎は盗んだ宝玉と大弓を玩んでしまったらしく、翌年に返還した。)
追 手
陽虎は公宮を出ると五父の懼で宿営し、ひと眠りしてから、
「腹が減ったわ」
と、食事を作らせた。
「追手がやってきます」
と、従者から忠告を受けても、陽虎は、
「魯人はわれが出ていったときけば、死なずにすんだと喜ぼう。追ってなどこようものか」
と、少しもあわてるそぶりをみせなかった。
あまりの余裕ぶりに、従者がたまらず、
「すぐに馬を車におつなぎなされ。公斂陽がおりますゆえ」
と、急かしたてた。
「公斂陽など、恐るるに足らん」
陽虎はそう返しながらも重い腰をあげ、魯の首都曲阜から去った。
陽虎がいった通り、追手は出されなかった。
「三桓は、腰抜けぞろいじゃ」
そう豪語した陽虎は、讙と陽関にはいると、叛旗を翻した。
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