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中国史人物伝

物語では虞翻に見限られ、孔明に論破されて憤死した儒家官僚 王朗(三国 魏)(2) 節省奏

王朗(1)はこちら>>

会稽太守であった王朗は孫策に降り、江東で埋もれかけていた。

王朗は博識で才能が高く、厳格な性質でよく慷慨した。

威儀があり、謙虚でつつましく、親戚からの贈物でさえ受けとらなかったという。

世俗から他人に施すことを好むと評判を受けておりながら

貧窮者を恤まない者をいつも非難しており、

施す場合は、真っ先に危急にある者を救った。

そんな人物を、あの英雄が放っておくわけがなかった。

中国史人物伝シリーズ

目次

上 京

王朗のもとを、許都から徴召の使者が訪れた。
――曹孟徳(曹操)に仕えるのか。
朝命ゆえ、応じなければならぬ。
頭では、わかっている。
だが、郷里(徐州)で大量殺戮をした曹操に仕えるとおもえば気が進まない。
そこで、王朗は曲阿を発し、船で江水(長江)と海を幾度も往来した。
すると、孔融が書翰をよこしてきて、早期の上京を催促してきた。
「やれ、やれ」
ようやく重い腰をあげ、許都に至った王朗は、
「くるのが、なんと遅いことよ」
ということばとともに曹操に迎えられ、諫議大夫、参司空軍事を拝命した。

昇 進

建安十八年(二一三年)に魏国が建てられると、王朗は軍(師)祭酒兼魏郡太守に任じられた。
あるとき、曹操から、
「君がむかし会稽にいたころ、米飯を節約したらしいな」
と、たわむれていってきた。
すると、王朗は仰ぎみて、嘆息していった。
「ほどよくするのは、難しいことです」
「どういうことじゃ」
「むかし、われは節約してはならんのに節約してしまいました。
今日、明公は節約すべきですのに節約なさいません」
と、王朗は曹操の戯言にかこつけて諷諫した。
その後、王朗は少府(帝室財務大臣)、奉常(祭礼担当大臣)、大理(司法大臣)と遷任された。
王朗は大理になると寛恕に務め、疑わしい罪は軽くし、裁きの見事さを称えられた。
鍾繇が肉刑を復活するよう主張すると、王朗はそれに反駁した。

施政方針

建安二十五年(二二〇年)に曹操が亡くなり、曹丕が魏王を襲いだ。
それに伴い、御史大夫(副首相)に遷任され、安陵亭侯に封じられた王朗は、つぎのように上疏し、
民を育み、刑を省くよう勧めた。
「兵乱が起きてから三十余年になり、四海は蕩覆(ゆれくつがえる)し、
万国は殄瘁(疲れ苦しむ)しております。先王(曹操)は寇賊を芟除(刈り除く)なさり、孤弱を扶育され、
華夏(中国)にふたたび綱紀がもたらされるようになりました。
そして、兆民をお集めになられ、人民は欣欣として泰平を喜びあうようになりました。
いま、遠方の寇はまだ服従せず、戦役はまだ終息しておりません。
もし、兵役を免除して遠方の人民をなつかせ、良吏が十分に恩沢を垂れ、阡陌(あぜ道)がみな修治され、
四民が繁盛すれば、必ず再び往時を越え、ふだんより富みましょう。
『易』(震下離上 噬嗑卦)に法を勅う(ととのう)と称し、『書』(呂刑篇)に刑を祥う(よくもちう)、
一人慶有れば、兆民これを頼る、と著しますが、いずれも法獄を慎むことをいわんとしております。
むかし、曹相国(曹参)は獄市を後任に引き継ぎ、路温舒(前漢の官吏)は治獄の吏を憎みました。
獄吏が実情をつかめば冤罪で死ぬ者はいなくなり、
丁壮の者(若者)が土地の生産力を十分に発揮させることができれば、飢えで苦しむ民はいなくなります。
貧窮している者や老人に倉廩の食物を支給できれば、餓死する者がなくなりましょう。
適齢期に嫁娶がおこなわれれば、男も女もつれあいをもたぬ怨恨をいだかなくなりましょう。
胎教が不足なくおこなわれれば、妊婦がからだを害して哀しまなくなりましょう。
新生児をもつ者の労役を免除すれば、孩児(幼児)が育たないという心配は消えましょう。
壮年に達してから労役を課せば、年少者が家を離れる懸念は消えましょう。
老人を徴兵しなければ、かれらが戦場で倒れ伏す心配は消えましょう。
医薬で疾病を治療し、徭役を軽減して仕事を楽しませ、威と罰で強きを抑え、
恩と仁で弱きを助け、救済策を講じて貧者を助けます。
さすれば、十年後には成人した者たちが巷間にあふれ、二十年後には精兵が野を満たしましょう」

節省奏

黄初元年(二二〇年)、曹丕が献帝から譲位され、帝位に即いた(文帝)。
それに伴い、司空(御史大夫の改称)になり、楽平郷侯に進められた王朗は、
つぎのような上奏をおこない、節約と瑣事の省略を説いた。
「内宮の美人は千人近くを数え、学官博士は七千余人、長安城内で民を治める為政者は三千人おります。
行政事務は煩瑣で儀礼も多く、度を過ぎております。
いまは、堯舜の御世を受けつぎ、政治は奢侈を除いて節倹につとめ、命令は繁雑を取り除き簡略化し、
刑を詳らかにして罰するのを慎重にして教化すべきときです。
当今、諸夏(中原)はすでに安らかになりましたが、巴蜀は支配しておりません。
まだ武器を偃せ甲をしまい、馬を放ち武器を収めるわけにはまいりませんが、
軍政を農事に紐づけるのがようございます。
吏士に稼穡にも従事させ、止まれば広野に井里(村落)をつくり、動けば六軍において隊伍をなし、
重い徭役を省き、衣食を充たすようにします。
糧食は生活の中で蓄えられ、勇は勢いにおいて養われ、いながらにして武威を曜かせることになりますので、
域外の蛮族は必ず稽顙してまいります」
「節省奏」
と、呼ばれるこの上奏から、王朗の政策が垣間見える。

猟を諫む

ときに、曹丕は狩りに出かけることが多く、昏夜になってから宮殿に還ることもあった。
「近ごろ車駕で虎狩りにお出ましになられるにあたり、
日昃(午後二時ころ)からお出ましになって昏になってからお帰りになられるのは、
帝王が外出なさる際の常法にそむき、
万乗の主にふさわしい慎み深いふるまいとは申せないのではございますまいか」
と、王朗が上疏して諫めると、曹丕はつぎのように応えた。
「上表をみた。魏絳が晋の悼公の狩好きを諷諌し、
司馬相如が『天子游猟の賦』を作って漢の武帝の狩好きを戒めたのも、先例にならないほどである。
方今、二寇(蜀と呉)がまだ殄滅されておらず、将帥は遠征している。
それゆえ、時には原野に入って戦いに備えたまでのこと。
夜に還ることへの戒めは、すでに有司に詔して施行している」

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