皇帝の廃替を敢行しながらも功臣とされた外戚 関白の元祖 霍光(前漢)(2) 博陸侯
紀元前87年2月、武帝が崩じて8歳の昭帝が即位し、
大司馬大将軍の霍光、車騎将軍の金日磾、左将軍の上官桀が幼帝を輔佐した。
このとき、霍光は領尚書事を兼ね、上書や勅命をチェックする権限が与えられた。
丞相(首相)を頂点とする官僚機構(政府)を外朝というのに対し、
外戚や側近、寵臣らで構成される権力集団を内朝と呼んだ。
内朝の頂点にいる霍光に権力が集中するようになると、外朝は事務執行機関でしかなくなった。
中国史人物伝シリーズ
目次
故 吏
霍光は、強大な権力を得ても慎重さを崩さず、独断専行を戒めた。
有力者や見込んだ者に女を娶わせ、姻戚関係を結んだ。
公卿が朝会をおこなうたびに、霍光は、丞相の田千秋に、
「いまわれは内を治め、君侯は外を治めておられる。
どうかわれが天下にそむくことのないよう、教えただしていただきたい」
と、いうものの、
「はい、将軍が留意していただければ、天下は幸甚に存じます」
と、返ってくるだけで、自分の意見を述べようとしなかった。
そのため、霍光は、田千秋を重んじた。
霍光は、もとの御史大夫(副首相)張湯の子張安世を篤行の人物であるとして、親しみ重んじた。
さらに、人材登用を積極的におこない、賢良の者を幕下に辟いた。
もとの御史大夫杜周の子杜延年らが、そうである。
高官から辟召により登用された者を、故吏という。
故吏となった者は、登用した高官の地位が高ければ、その手引きで出世できるが、
その高官が罪にかかれば連坐となるなど、運命をともにすることになる。
なかでも、霍光が長史に取り立てた楊敞、田延年、丙吉らはのちに大臣に昇った。
霍光は故吏を増やし、朝廷で大きな勢力を築いていった。
宗室の駒
「将軍は、呂氏のことをご存じではありませんか。伊尹や周公のような位にいて、権勢をほしいままにし、
宗室をないがしろにしてしまったために、天下の信を失い、滅亡に至りました。
いま将軍は高位についておられ、帝は春秋に富んでおられます。
よろしく宗室をお納れになり、また、大臣とともに事を図るようにすれば、患いを免れることができましょう」
ある人からそう説かれ、
「なるほど、そうか」
と、おもった霍光は、宗室から有用な人物を擢用しようとしたところ、
「劉徳は楚の元王(劉邦の弟の劉交)の曽孫で、智略があり、先帝から千里の駒と称されました」
と、知らされたため、劉徳を起用しようとして、丞相府で詔命を待たせたところ、ある人から、
「劉徳の父が存命で、先帝の寵幸を受けた方です」
と、いわれた。
それで、劉徳の父劉辟彊を光禄大夫(宮中の顧問官)に登用し、のちに宗正(皇族担当大臣)に昇進させた。
その後、劉辟彊が亡くなると、劉徳を宗正に任用した。
劉徳は、儒学者として名高い劉向の父である。
燕王の乱
始元元年(紀元前八六年)、霍光は昭帝の兄である燕王旦と広陵王胥に、
それぞれ一万三千戸ずつを増封し、懐柔を図った。
さらに、昭帝を奉養している鄂邑公主にも一万三千戸を増封した。
ところが、それでは満足できない貴人がいた。
八月に、青州刺史の雋不義から劉邦の玄孫にあたる劉沢らを謀叛のかどで捕えたという報せが朝廷にはいった。
昭帝が大鴻臚の丞(副官)を遣わして裁かせたところ、
燕王旦が中山靖王劉勝の孫劉長や劉沢らと謀をあわせて帝位をうかがおうとしていたことがわかった。
昭帝は劉沢らを誅する詔を下す一方、燕王の罪を問わなかった。
博陸侯
後元元年(紀元前八八年)六月に、霍光、金日磾それに上官桀らが、
謀叛を企てた侍中僕射馬何羅、弟の馬通(馬援の曽祖父)らを誅したが、論功行賞はまだされていなかった。
武帝は罹病してから、璽書を封じ、
「朕が崩じてから書を開き、そのとおりにいたせ」
と、いいおいた。
武帝崩御後、璽書をひらき、そこに記されていた遺詔により、
金日磾は秺侯、上官桀は安陽侯、霍光は博陸侯に封ぜられることになった。
しかし、金日磾は昭帝が幼いことを理由に封を受けず、霍光や上官桀も受けようとしなかった。
始元元年(紀元前八六年)に金日磾が死の床につくと、霍光の計らいで金日磾に封建がされ、
翌年には霍光と上官桀も封建された。
「帝が罹病なされてから、われは常に左右にいたが、三人を封ずる遺詔などあるもんか」
と、侍中の王忽がそういいふらした。
霍光は、王忽の父で衛尉(宮門警備担当大臣)であった王莽(新の王莽とは別人)をきびしく責めた。
すると、王莽は王忽を酖で毒殺した。
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