皇帝の廃替を敢行しながらも功臣とされた外戚 関白の元祖 霍光(前漢)(1) 出世
専横のかぎりを尽くし、皇帝の廃替を敢行してまで野心を満たそうとしたあげくに誅され、
後世に悪名をとどろかせたかれらが、おのれを正統化するために先例にしたのは、
霍光(あざなは子孟)(?-前68)
であった。
霍光は匈奴討伐で活躍した名将霍去病の異母弟で、外戚として武帝に近侍し、
ついで幼い昭帝を輔政し、信頼を積みあげて得た揺るぎない権力を生涯手放さなかった。
霍光の治世により、民の暮らしはよくなり、異民族は漢朝に来聘して服従した。
身長は七尺三寸(約168cm)と小柄ながら、万事を決裁した霍光が、
なぜ皇帝の廃替を敢行しながらも後世に功臣と評されたのか?
中国史人物伝シリーズ
目次
霍去病
父の霍中孺(霍仲孺)は河東郡平陽県の人で、県吏として平陽侯(曹参の子孫)の家で給事をつとめていたが、
侯家の侍女衛少児と私通して霍去病が生まれた。
霍中孺は役目を終えると、霍去病を措いて家に帰り、婦を娶って霍光が生まれた。
そのような経緯があり、霍光は霍去病と互いに久しく音信がなかった。
衛少児の妹衛子夫が武帝に寵愛されて皇后に立てられると、
霍去病は皇后の甥として寵幸されるようになった。
霍去病が壮年になり、票騎将軍となり(紀元前一二一年)、匈奴征伐におもむいた途次に河東郡を通った際、
平陽の宿舎に霍中孺を迎え、ものごころがついてからはじめて父に会った。
出 仕
十余歳の霍光は、凱帰の途次にふたたび平陽を過った霍去病に連れられて、西のかた長安へ至った。
霍光は郎(近侍の臣)に任じられ、諸曹(官署)を経て侍中(皇帝に近侍する顧問官)に遷任された。
霍去病の死(紀元前一一七年)後、
霍光は奉車都尉(皇帝の車馬をつかさどる官)および光禄大夫(皇帝の顧問官)になり、
武帝の外出時には同乗し、宮中にあっては左右に侍り、二十余年にわたって宮中の小門を出入りした。
小心でつつしみ深く、過失をおかしたことがなく、武帝にたいへん親しまれ信用された霍光は、
七十歳に達した武帝から絵を賜った。
その絵には、周公が成王を背負うて諸侯を朝見する場面が描かれていた。
太子の座
後元二年(紀元前八七年)二月、七十一歳になった武帝は、五柞宮で重い病に罹った。
五十四年もの長きにわたり帝位にあった武帝には、六人の男子がいた。
劉拠(皇太子、巫蠱の乱で敗死)
劉閎(斉王、若くして死去)
劉旦(燕王)
劉胥(広陵王)
劉髆(昌邑王)
劉弗陵(母は趙婕妤)
劉拠と劉閎は武帝に先立って亡くなり、劉髆は武帝と同年に死去してしまう。
燕王劉旦と広陵王劉胥は驕慢であると聞こえ、
武帝が老いてからの寵姫趙婕妤との間にもうけた末子の劉弗陵はまだ八歳という幼さであり、
衆目が一致する後継者はいなかった。
それゆえ、霍光が、
「もし万一のことがございましたら、どなたを世嗣にとお考えあそばしますか」
と、涕泣しながらたずねたところ、
「君はまだあの絵の意味を諭らぬのか。少子を立てて、君には周公のように摂行してもらいたい」
と、武帝が応えていった。霍光は頓首して、
「臣は、金日磾には及びません」
と、辞譲したが、金日磾もまた、
「臣は外国人であり、霍光には及びません」
と、いった。金日磾は、匈奴の休屠王の太子であった。
領尚書事
後元二年(紀元前八七年)二月乙丑(十二日)、劉弗陵を太子に立てた武帝は、
丙寅(十三日)、霍光を大司馬大将軍、金日磾を車騎将軍、上官桀を左将軍、桑弘羊を御史大夫に任じた。
四人はみな臥室の枕もとで拝命し、遺詔を受けて幼主を輔佐することになった。
その翌日(十四日、丁卯)、武帝が崩御した。
戊辰(十五日)、太子弗陵が帝位に即き、高廟(高祖劉邦の霊屋)に詣でた。これが昭帝である。
昭帝の母は、武帝から死を賜っていた。
外戚の擡頭を懸念したがゆえの処断であった。
そこで、姉の鄂邑公主が、昭帝を省中(宮中)で奉養することになった。
そして、霍光が政柄を執り、金日磾と上官桀の輔けを受けることになった。
このとき、霍光には領尚書事も加えられた。
領尚書事は、皇帝の秘書官として上奏を取り扱う尚書と中書の統括官である。
皇帝への上奏文は二通作成し、領尚書事がそのうちの一通を開封して中身を確認し、
問題がなければ皇帝に取り次ぐが、内容が意に沿わなければ、却下することができた。
兵権を有するばかりか、皇帝よりも先に国家の枢機に触れるというきわめて絶大な権力を得たのである。
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