秦最後の名将 章邯(秦)(1) 快進撃
秦の始皇帝の死の翌年(紀元前209年)、河南の貧農であった陳勝が、
そう農民らに呼びかけ、仲間の呉広とともに蜂起した。
この勢力はたちまち数万の大軍に膨れ上がり、陳を攻め陥とした。
王になった陳勝は、各地に将兵を遣り、秦の支配をゆるがした。
なかでも、西方攻略の命を受けた周章(周文)の軍は、
難攻不落の函谷関を突破し、秦の首都咸陽の近くまで侵攻してきた。
秦王朝は、滅亡の危機にさらされた。
中国史人物伝シリーズ
史上初 函谷関を突破した名将 周章(周文)
目次
献 言
紀元前二〇九年九月、陳勝の部将周章(周文)らが数十万の兵を率いて函谷関を突破し、
西のかた戯に至ろうとしていた。
戯から秦の首都咸陽までは、わずか四十里(約十六キロメートル)しかない。
二世皇帝はたいそうおどろき、
「いかがいたそう」
と、群臣に諮うた。
咸陽には外敵への備えがなく、匈奴に備え北のかた上郡にいる正規軍を呼び寄せたところで間に合わない。
「盗はすでに近くにまでせまっており、兵は多くて強うございます。
いま、近県から兵を徴発しても間にあいません。酈山には、刑徒が多うございます。
どうか、かれらを赦し、武器を授けて盗を撃たせていただきますよう」
そう意見をのべたのは、少府(帝室財務大臣)の章邯であった。
章邯が周章の軍を叛乱軍といわずに盗と呼んだのは、
二世皇帝との耳に叛乱と吹きこめば、機嫌を損ね、即座に誅されてしまうからである。
「よかろう」
章邯は二世皇帝の許可を得ると、
「戦功を挙げれば、赦免しよう」
と、酈山の囚徒や家々の産奴(奴僕の子)によびかけた。
すると、またたくまに二十万もの人をかき集めることができたのであるから、
秦の法がいかに厳酷であったか推しはかることができよう。
快進撃
章邯は赦免した囚徒らに武器を与えて戯へ引率し、戯水をはさんで対峙した。
――兵数は、おなじくらいか。
そうつぶやいた章邯は、
「文には、章じゃな」
と、軽く笑って太鼓をたたいた。
戯水の両岸から天を揺らし、地を轟かさんばかりの喊声があがった。
両軍の兵士が、戈矛をあわせた。
――戦功を挙げれば赦免される。
秦兵の欲望と必死さが、周文の兵たちのそれを上回り、おおいに撃ち破った。
「追えっ――」
章邯は敗走する周章の軍を追撃し、函谷関を出てほどない曹陽で撃破した。
章邯はさらに周章の軍を追撃し、曹陽の西七十里(約二十八キロメートル)にある澠池で十日以上戦って、
ここでも大勝し、周文を自刎に追いやった。
この勝報に二世皇帝は喜悦し、司馬欣と董翳の二長史に援兵を属けてよこしてくれた。
章邯は東進して陳勝軍の攻撃にさらされている滎陽の救援にむかい、敖倉で陳勝の部将田臧を破って戦死させ、
李帰らを滎陽の城下に撃ち破り、戦死させた。
章邯は五逢を許で撃破し、章邯の別将が鄧説を郟で撃破した。
賊徒掃討
十二月に章邯は陳を撃ち、上柱国(宰相)の蔡賜を戦死させた。
さらに兵を進め、陳の西に到った。
「首魁のおでましか」
章邯は陳勝の軍を撃ち破り、張賀を戦死させ、陳勝を敗走させた。
「逃がすな、追えっ――」
章邯は陳勝を追う一方、降服してきた陳の将司馬尼に兵を授けて碭へむかわせ、
彭城で仮の楚王を自称した景駒の部将であった劉邦らの軍を撃破した。
そんなおり、御者の荘賈が陳勝を殺して秦に投降してきた。
陳勝の首をみても、章邯は安堵しなかった。
もはや、叛乱が各地に拡がっていたからである。
しばらくすると、楚の名将項燕の子を名告る項梁が、景駒を破り、胡陵にはいったという報せをうけた。
――ほう、ちょっとは骨のありそうなやつがあらわれおったか。
章邯は兵を東へ進め、栗で項梁の部将を破った。
すると、項梁は薛へ退いたという。
――見込み違いであったか。
報せをきいて舌打ちした章邯は、軍頭を西北にめぐらせて魏を撃ち、魏王咎が籠もる臨済を攻め囲んだ。
包囲が百日をこえようとするころ、魏の宰相周市が、斉と楚の援軍を引きつれてきた。
「手強そうなのは、斉の軍だな」
そう察した章邯は、夜半、兵馬に枚(木片)をふくませ、連合軍の不意を衝いた。
章邯は、敵を大いに撃ち破り、周市や斉王の田儋らを臨済の城下で戦死させた。
さらに、田儋の従弟の田栄が斉の残兵をまとめて逃げるのを追って東阿を囲んだ。
これで、臨済は完全に孤立してしまった。
魏咎は人民のために降伏を約し、約が定まると、自殺した。
――敵ながら、あっぱれ。
報せを受けて、章邯は胸裡で魏咎に感嘆した。
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