盗賊か乱世の梟雄か 孔子の好敵手 魯国を牛耳った下剋上の代表 陽虎(陽貨)(春秋 魯)(1) 政変
孔子が17歳のとき、
――季孫子が士を饗応している。
と、きいて、魯国の宰相である季孫氏の邸を訪ねたところ、
「季氏は士をもてなそうとしているのであり、おまえのような孺子に用はない」
と、
陽虎(陽貨)
という家臣から門前払いを食らわされた。
それから40年後、逐われるようにして魯を出奔した57歳の孔子が、
衛を経て陳へゆこうとして匡という邑に到った際に拘束された。
孔子の容貌が、かつて匡で乱暴をはたらいた陽虎に似ていたからという。
白川静著『孔子伝』によれば、陽虎には孔子と数多の共通点があったらしい。
出自もしかり、世間への野望もまたしかり。
それでいて、人を惹きつける魅力も備えていたらしく、
陽虎は古典に通じ、多くの弟子を持っていたという。
しかも、政治的な嗅覚にもすぐれ、政変を起こして魯国を支配したこともあった。
だが、夢破れて国外へ逃れ、その後魯に戻ることはなかった。
国政を担い、理想を実現しようと試みた陽虎は、孔子の先駆者であったといえよう。
中国史人物伝シリーズ
目次
三桓氏
春秋時代にはいると、中原諸国で主権の降下が進んでいた。
古礼を重んじた魯も、その例外ではなかった。
国君には実権がなく、桓公から岐れた
季孫氏
叔孫氏
孟孫氏(仲孫氏)
が、政権を独占していた。
三桓と称されたこれら三氏のうち、最も権勢を誇ったのは季孫氏であった。
これは、季孫氏の始祖となった公子友が僖公を擁立したことによる。
以後、季孫氏は代々司徒(首相)となって政柄を握り、叔孫氏が司馬、孟孫氏が司空となり、
三家が人臣の最高位である三公の地位を独占し、世襲した。
三桓は、公室の弱体化を図るべく軍制改革を断行した。
すなわち、襄公十一年(紀元前五六二年)に、従来の二軍に一軍を増設して三軍とし、
兵力と兵賦を三分して各家で管理し、国君から兵権を奪った。
その後、昭公五年(紀元前五三七年)に季孫氏は一軍を廃止して二軍に戻し、一軍を季孫氏が、
残りを叔孫氏と孟孫氏は折半する形で私有化し、三家による独裁体制を確立してしまった。
この結果、季孫氏は、采邑である費、卞、東野を擁する独立国の君主という様相を呈していた。
昭公は季氏の専横を憎み、実権をみずからの手に取り戻すべく挙兵し、季氏を攻めたものの、
かえって敗れ、斉へ亡命した。
昭公二十五年(紀元前五一七年)のことである。
斉の景公は魯の鄆邑を攻め取り、そこへ昭公をいれて住まわせた。
季孫の家宰
陽虎の身分は、それほど高くなかったとおもわれる。
陽虎は若いころから学問に励み、
――おのれの才能をためしてみたい。
と、望むようになり、魯の宰相として国君を凌駕する権勢を有した季孫氏に仕えた。
ときの当主は、季孫意如(季平子)であった。
かれは、決して主君に媚びるようなことはしなかったであろう。
――智略と武勇にすぐれている。
主君からそう評価されたかれは、家中で頭角をあらわし、家宰(家老)にまでなった。
そして、昭公二十七年(紀元前五一五年)に、
「君を取り戻してまいれ」
と、季孫意如から命じられた。
政変により、昭公は首都の曲阜を出て鄆に逃れ、隣国斉の庇護を受けていた。
それが二年ほど続き、さすがに、
――国君を追放した不忠の臣。
という外聞をはばかったのであろう。
陽虎は仲孫何忌(孟懿子)とともに鄆を攻め、昭公の手勢を且知で破った。
しかし、昭公を奪い返すことはできなかった。
璵 璠
昭公三十二年(紀元前五一〇年)に、昭公が晋の乾侯で客死してしまうと、
三桓氏は昭公の弟である公子宋を君主に擁立した。これが、定公である。
陽虎がその名を天下にとどろかせたのは、定公五年(紀元前五〇五年)のことである。
この年の六月に、季孫意如が領地の東野を巡視して都へ還る途中でにわかに発病し、亡くなった。
季孫氏の家中は、こぞって主君の葬礼に忙殺された。
魯の君主は、
「璵璠」
という宝玉を佩用した。
晋の垂棘や楚の和氏の璧に比肩するほどの美玉であったという。
昭公が出奔していた間、宰相であった季孫意如が昭公の名代として魯の祭祀をおこなっていたが、
その際に璵璠を佩びていた。
おのれを家宰にまで引き立ててくれた主への報恩として、陽虎が璵璠を亡主の棺に副えて斂葬しようとしたが、
「步も玉も改めてよいものか」
と、同僚の仲梁懐から反対され、璵璠を与えられなかった。
礼によれば、歩みかたも、腰に佩びる玉も君臣で異なる。
君主が佩用した玉を副葬するのは臣下として僭越であり、亡主を陥れることにならないか。
そう主張してきたのである。
――不忠者めが。
陽虎は立腹し、費の宰(代官)であった公山不狃(あざなは子洩、『史記』では公山弗擾)に、
「仲梁懐を放逐しよう」
と、もちかけた。これに対し、公山不狃は、
「主君のために申したことじゃ。怨むことはあるまい」
と、陽虎をたしなめた。
政 変
季孫意如の葬礼が終わると、家督を襲いだ季孫斯(季桓子)が領地を巡視し、東野を通って費まできた。
「ようこそお越しくださいました」
郊外まで出迎えにきて慰労してくれた公山不狃に、季孫斯は丁寧な物腰で接した。
ところが、季孫斯に随行した仲梁懐は公山不狃を侮り、ぞんざいな態度に終始した。
公山不狃は怒り、
「きゃつを逐いだしてくれないか」
と、陽虎にもちかけた。
――やっとその気になってくれたか。
陽虎は安堵した。だが、仲梁懐を追放しようにも、
――主と公父歜(公父文伯、季孫斯のまたいとこ)に妨げられるのではないか。
と、危惧し、それを回避できる方法はないか思案をめぐらした陽虎は、熟慮を重ねたあげく、
九月乙亥(二十八日)に季孫斯と公父歜を捕らえてから、仲梁懐を放逐し、
十月丁亥(十一日)に季氏の一族である公何藐を殺してから己丑(十三日)に稷門(魯の南城門)の中で季孫斯と盟い、
庚寅(十四日)に、
――盟いに背けば、神罰を受けようぞ。
と、おおいに詛って公父歜と季孫意如の姑婿である秦遄を追放した。
これは、単なる家中の権力争いではない。
なにしろ、魯国を事実上支配しているのは、季孫氏なのである。
すなわち、陽虎は、季孫氏の家中を制したばかりか、魯の実質的な支配者となったのである。
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