不惜身命 不屈の闘志で苦難を乗り越えた盲目の高僧 鑑真(唐)(4) 東征
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鑑真和上は、12年かけて六たびも挑んだ末に渡日を果たした。
伝戒の本懐を遂げた和上が日本にもたらしたのは、仏教だけではなかった。
仏教建築、仏教芸術、さらには、医学、薬学などの知識もそうであった。
和上にとって渡日は布教のためであり、その使命が果たせるのなら、
日本でなくてもよかったかもしれない。
しかし、日本は、博識の高僧を迎え、政治、文化等各方面で多大な影響を享受できた。
その点において、日本にとって、和上はまさに恩人であった。
和上がひらいた唐招提寺は、創建当時は平城京の中心に位置していたが、
いまは深い静謐に包まれ、訪れる者に和上の遺志を伝えつづけている。
中国史人物伝シリーズ
目次
遣唐使
天宝十二年(七五三年)十月十五日、揚州の延光寺にいた鑑真のもとを、日本の使節が訪れた。
日本の使節、すなわち遣唐使は、その前年に入唐しており、鑑真が面会したのは、
大使 藤原清河
副使 大伴子麻呂
副使 吉備真備
らの他に、唐で朝衡(晁衡)と称していた留学生阿倍仲麻呂の顔もあった。
「和上が布教のため五たびも日本に渡ろうとなされた、とうかがいました。
いま、拝謁をたまわることができまして、感無量にございます」
大使らはそう切りだしてから、
「主上(玄宗皇帝)に謁見して和上の招聘を懇請いたしましたが、容れられませんでした」
と、告げ、
「大和上、みずから方便をなせ。国の進物を載せる船四舶あり、行装具足す。行難きにあらず」
と、いって、鑑真を誘ってきた。
――自分で手だてを講じていっしょにきてほしい。
とは、突き放したような物言いではあるが、
――これも御仏のお導きじゃ。
と、鑑真は解し、
「されば、まいらん」
と、応じた。
脱 出
鑑真は遣唐使たちとの会見を終えると、渡航の準備をすべく、龍興寺へうつった。
その直後、寺の警備が厳しくなった。
――官衙に感づかれたか。
警備をかいくぐり、寺の外へ出る手だてを考えなければならない。
そのようなおり、仁幹という禅僧が、
「長江に船を用意しております」
と、申しでてくれた。
「かたじけない」
と、謝意を呈した鑑真は、
十月十九日の夜に裏門からひそかにぬけだして、仁幹が用意してくれていた船に乗り、
思託ら十四人の弟子を含む二十四人とともに長江をくだり、遣唐使船が待つ蘇州の黄酒浦へむかった。
密 航
鑑真らは黄酒浦へ到ると、四船に分乗させられた。
第一船 藤原清河 阿倍仲麻呂
第二船 大伴古麻呂
第三船 吉備真備
第四船 判官布施人主
「いよいよ、日本へ」
と、かれらはおもいを強くした。
ところが、鑑真らは突然船から下ろされてしまった。大使藤原清河の命であるという。
――怖気づいたか。
鑑真たちのなかで近づきかけた日本が、また遠ざかってしまった。
十一月十日の夜、
「和上」
という声を耳にした。
「たれか」
「大伴古麻呂さまの家来です。船にご案内いたします」
「うむ」
御仏は、鑑真らを見捨てていなかったのであろうか。
鑑真らは夜のうちに荷物に紛れて船に乗りこみ、倉庫の奥深くに匿れた。
藤原清河にみつかれば、下船させられるおそれがあるからである。まさに密航である。
ほどなく大伴古麻呂がやってきて、
「ご不便をおかけしますが、ご辛抱のほどを」
と、声をかけられた。だが、鑑真は特段不便を感じなかった。
十三日に、普照が鑑真の東征をきいて駆けつけ、第三船に乗船した。
六回目
十一月十六日、四船は黄洒浦を出帆した。
――今度こそは。
と、鑑真は仏に祈りをささげた。六十六歳のかれにとって、これが最後の機会になるかもしれない。
二十一日に、第一船と第二船が沖縄の阿児奈波島に着いた。
「ここまでくれば、もう大丈夫でしょう」
と、大伴古麻呂が朗らかに話しかけてきた。ようやく、鑑真は倉庫から出ることができた。
「いよいよ、日本ですぞ」
十二月六日、南風を得て、第一船と第二船は多禰島(種子島)をめざし沖縄を発った。
第一船は出港してほどなく岩に乗りあげ、座礁してしまったが、
第二船は翌日に益久島(屋久島)に到り、十二月二十日、薩摩国の秋妻屋浦に到った。
ついに、鑑真は日本の土を踏んだ。
第一船は漂泊の末安南(ベトナム)まで流され、第三船は多禰島、屋久島を経て、
紀伊の牟漏崎(潮岬)に漂着し、第四船は漂流して翌年四月に薩摩国に着いたといわれる。
藤原清河と阿倍仲麻呂は長安にもどり、唐朝に仕え、ふたたび祖国の地を踏むことはなかった。
平城京
鑑真は薩摩から大宰府へ移り、年が変わってから船で難波へ渡り、そこから陸路にて平城京にはいり、
東大寺に迎えられた。天平勝宝六年(七五四年)二月四日のことであった。
近年の研究では、鑑真は完全に失明したわけではないという説もあるらしい。
唐の都長安を模したとされる平城京は、鑑真の目にどのように映ったのであろうか。
はじめから鑑真と行動をともにした僧らのうち、渡日を果たしたのは、
弟子の思託と、日本僧の普照だけであった。
この間、三十六人が世を去り、二百人余りが心変わりして去っていった。
束大寺の金堂前に戒壇が設けられ、
四月に鑑真は聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇ら沙弥四百四十余人に授戒した。
鑑真は天平勝宝八年(七五六年)に大僧都に任じられたが、
二年後には老齢のためその任を解かれ、大和上の号を贈られた。
そのころ、鑑真は平城右京五条二坊にあった新田部親王の旧宅を賜わった。
唐律招提
天平宝字三年(七五九年)、鑑真は、思託と普照の勧めで、賜わった地に、
「唐律招提」
という私寺をひらいた(唐は大に通じ、招提は四方の意)。
――貧富や貴賤を問わず、各地から僧が集い、学んでほしい。
そんな鑑真の希望が、寺の名にこめられている。
そして、これこそが、鑑真が幾多の苦難に遭おうとも挫けることなく渡日を果たした駆動力であった。
創建当初は、戒院のみを有する寺であった。
仏を祀る金堂がないのは、当時の日本の寺院の伽藍としては珍しいことであった。
「金堂よりも講堂を先に建てよ」
鑑真は、そう命じた。
講堂は僧が仏の道を学ぶところであるから、いかにもかれらしい。
翌年、当時の実力者であった藤原仲麻呂のはからいにより、平城宮の東朝集殿を移して講堂とした。
さらにその二年後、唐律招提に戒壇が設けられた。
伽藍が整い、寺号が唐招提寺に改められたのは、平安時代になってからである。
寺に悲田院を併設し、貧民救済に尽力したことにも注目すべきであろう。
鑑真は、天平宝字七年(七六三年)にはいってから体調を崩すようになった。
「死ぬのなら、坐して死にたい。なんじは、われのために戒壇院に別に影堂を建てよ」
そう思託にいい遺した鑑真は、五月六日に、坐したまま七十六年におよぶ波乱の生涯を閉じた。
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