史書では知れない神秘の王国 中山(戦国時代)
「戦国七雄」
と、よばれた七大国に次ぐ勢力を有した国があった。
中山国である。
中山国については史書の記載が少なく、
「神秘の王国」
と、呼ばれていた。
しかし、1970年代におこなわれた
河北省石家荘市平山県の中山王陵や霊寿古城などの発見と発掘により、
そのベールがはがされようとしている。
中国史人物伝シリーズ
目次
中山国の歴史
中山は、紀元前五世紀末から紀元前三世紀初めまで百数十年続いた国である。
その名は、『史記』や『戦国策』などに断片的に散見される。
中山は、春秋時代に北方の異民族である白狄が建てた鮮虞を前身とする姫姓の国であり、
趙と燕に囲まれたその版図から、両国ならびに近隣にある斉の影響を受けた。
紀元前五世紀末に中山の武公が東遷し、顧へ移った。
紀元前四〇六年に、いったん魏に滅ぼされるが、桓公が紀元前四世紀初期に国を復興させ、霊寿に遷都した。
以後、増大した国力を背景に、中山の君主は王号を称えた。
紀元前四世紀後期のことである。
紀元前三一四年に、燕で子之の乱とよばれる内乱が勃こった。
斉がそれにつけこんで燕に侵攻すると、中山もそれに便乗して燕を攻めた。
以降衰退し、紀元前二九六年に趙の武霊王(主父)に滅ぼされた。
羊 羹
羹(あつもの)は、肉や野菜を煮た吸い物である。
羹に関する逸話をふたつ挙げる。
食べ物の怨み
中山君が、士大夫に羊の羹をふるまった。
ところが、司馬子期のところまで羹がまわってこなかった。
子期は怒って楚へゆき、楚王を説いて中山を伐たせた。
中山君は逃げた。
そのあとを戈をひっさげてついてくるふたりの男がいた。
中山君がふりむいて、
「何者じゃ」
と、誰何すると、
「臣らの父が餓死しかけていたとき、君は壺飡(食べ物)を恵んでくださいました。
父は死ぬ間際に、中山にことが起これば、なんじらはいのちをすてよ、と申しました」
と、ふたりが応えた。
中山君は喟然として天を仰ぎながら、
「施しは多寡ではなく、困っているときにするもんじゃ。怨みは深浅ではなく、傷つけたかどうかじゃ。
われは一杯の羊羹で国を滅ぼし、一壺の飡でふたりの士を得た」
と、嘆いた。
楽羊啜子
魏の将軍楽羊が、魏の文侯の命で中山を攻めてきた。
このとき、楽羊の子が中山にいた。
「それなら――」
中山君は楽羊の子を煮て羹にし、楽羊に贈った。
「うまいっ」
楽羊は、羹を喜んで食べたという。
それをきいて、中山君は、
「これ伏して死節を約する者なり」
と、うなり、降伏した。
大功をあげて凱帰した楽羊は、文侯から恩賞として中山の都霊寿を授かったものの、猜疑の目をむけられた。
のちに燕の将軍となって斉を滅亡寸前まで追い込んだ楽毅は、楽羊の子孫であるらしい。
中山王
中山が王号を称えた。
「われは万乗の国じゃが、中山は百乗の国じゃ。あんなのと同列になるなんて、恥じゃ」
斉は怒って関を閉じ、
――ともに中山を伐とう。
と、趙や燕にもちかけた。
中山王はこれをきいておおいに恐れ、張登を召し、
「寡人は国が滅ぼされるのを恐れており、王になりたいなんておもうておらぬ。なんとかならんか」
と、いった。
「臣のために車を多くし、幣物を重くしてください。田嬰を説きますゆえ」
張登はそう応じて斉へゆき、斉の宰相である田嬰に面会した。
「君は趙や燕とともに中山を伐ち、王号を称えるのをやめさせようとしておいでのようですが、
それは間違いです。そんなことをすれば、中山は恐れて趙や燕と親交しようとするでしょう。
そうなれば、君は趙や燕のために羊を驅りたてることになり、斉の利になりません。
それよりは、中山が王号を称えるのをやめて斉に仕えさせるのがいちばんです」
「どうすればよいですか」
「君が中山君に王号を称えるのをお許しになれば、中山はきっと喜び、趙や燕と絶交するでしょう。
すると、趙と燕は怒って中山を攻めましょう。
そのおりに君が王号に難色を示されれば、中山君はきっと恐れ、君のために王号を廃して斉に仕えましょう」
「わかりました」
田嬰は張登の意見を容れ、中山君が王号を称えるのを許した。
すると、張登は趙と燕に使者を遣り、
「斉は中山が王号を称えるのを許しました。これは、中山の兵を用いてお国を伐とうとたくらんでいるのです。
大王におかれましては、斉よりも先に中山が王号を称えるのをお許しになり、
中山君が斉王に会うのをやめさせるのがよろしいと存じます」
と、申しいれた。
二国は、これを許諾した。
中山は斉と絶交し、趙や燕と親交するようになった。
賢君の間隙
趙の武霊王は中山を伐とうとして、李疵に偵察させた。
李疵は任務を終え、
「伐つべきです」
と、武霊王に復命した。
「なにゆえか」
「中山の君には、車蓋を寄せあって語りあう者、車に同乗させる者、
窮閭隘巷(貧民街)まで会いにゆく士が七十以上もございますゆえ」
「賢君じゃないか。伐つことなどできようか」
「いえ、そうではございません。
士を挙用すれば、人民は名声を得ようとして本(農業)に務めなくなり、戦士は懦弱になります。
こうなってから滅びなかった国など、これまでございませんでした」
李疵はそういって、中山討伐を勧めた。
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