Blog ブログ

Blog

HOME//ブログ//世渡り上手⁉ 盟主国に取り入って専横のかぎりを尽くし、二たび亡命しながらも権勢を保持した権相 孫林父(孫文子)(2) 政変

中国史人物伝

世渡り上手⁉ 盟主国に取り入って専横のかぎりを尽くし、二たび亡命しながらも権勢を保持した権相 孫林父(孫文子)(2) 政変

孫林父(孫文子)(1)はこちら≫

衛の献公は、父定公の喪に服した際に哀しむようすをみせず、

「あれでは、地位を全うできぬ」

と、定公の正夫人であった定姜に嘆息された。

暗愚な献公は嫡母の危惧を察することができず、

讒者やおのれに阿るような者ばかりを近づけ、狩りや音楽にふけった。

上卿(宰相)の孫林父は献公のそんなふるまいを危ぶみ、

盟主国である晋の卿(大臣)らと親交し、財宝をみな食邑へ移した。

不穏な気配がただようなか、決定的な事件が起きてしまう――。

中国史人物伝シリーズ

孔子に敬仰された賢大夫 蘧伯玉

目次

皮 冠

献公十八年(紀元前五五九年)四月のことである。
献公から食事に誘われた孫林父と甯殖は、正装して参朝し、お召しがあるのを待った。
ところが、日が暮れてもふたりは召しだされなかった。
「君は、いかがなされた」
顔をみあわせたふたりは、献公の近臣をつかまえてそうたずねた。
「苑囿で狩りをなされております」
「なんだと――」
ふたりは血相を変えて苑囿へゆくと、
「ふたりそろっていかがいたした」
と、献公は食事の約束など覚えていないかのようなようすで、皮冠を脱がずに話しかけてきた。
孫林父と甯殖は正装をしているのであるから、献公は狩りをする際につける冠帽を脱ぐべきであろう。
――なめげな――。
ふたりは、怒りで満腔を満たした。

巧 言

孫林父は、食邑の戚へ移り、
「君に使いせよ」
と、子の孫蒯に命じた。
孫蒯は献公に拝謁したのち、ふたたび戚へもどり、
「君は、巧言の卒章を楽人に歌わせました」
と、孫林父に復命した。
それをきいて、孫林父は血の気が引いた。
巧言は『詩経』(小雅)の篇名で、その卒章は、
 彼何人ぞ (彼は何者か)
 河の麋に居り (黄河のほとりに住んでおり)
 拳無く勇無し (力も勇気もないのに)
 職として乱階を為す (叛乱を起こそうとしている)
とある。
――孫林父が、黄河のほとりにある戚邑で謀叛を企てている。
献公は、そうほのめかしたのである。

決 起

「君は、われを忌んでおられる。先んじなければ、きっと殺されよう」
そう断じた孫林父が事を起こすにあたり、気にしたのは国人の反応であった。
――蘧氏は、どうするか。
そうつぶやいた孫林父は、帑(妻子)を戚に集めてから衛の都帝丘へゆき、蘧伯玉に会い、
「君の暴虐ぶりは、あなたもご存知の通りです。
このままでは社稷が傾覆するのではないか、と大いに懼れております。いかがなさいますか」
と、訊いた。
「君が国を治めておられるのですから、どうして臣が奸しましょうか。
奸したところで、いまよりよくなるとはおもえません」
蘧伯玉はそうはぐらかして去っていくと、国外へ逃れた。
これは、孫林父に与しないことを表明したことになる。
と同時に、敵対しないということでもあった。
蘧伯玉は衛国の良心ともいうべき存在であり、国人に声望がある。それゆえ、
――これで、何とかなろう。
と、安堵した孫林父は、戚に近い丘宮に兵を集めた。
そこに、子蟜、子伯、子皮の三公子が献公の命を受け、
「ともに盟おう」
と、孫林父に申しでてきた。しかし、孫林父は、
「遅い」
と、一喝し、三公子を殺してしまった。

新 君

四月己未(二十六日)、献公は帝丘をでて鄄邑に逃れ、公子の子行を孫林父のもとへ遣わしてきた。
孫林父は、子行を殺した。
それを知って、献公は斉へ出奔しようとした。
「君が、逃げたか」
報せをきくや、孫林父は飛びあがらんばかりに喜び、
「追え」
と、家臣に追撃を命じ、みずから兵を率いて献公のあとを追い、阿沢で献公の従者を撃ち破った。
献公は、追っ手を振り切って斉へ亡命した。
このとき、孫林父にすれば恩人といってよい定姜も斉へ逃れた。
――郷里にお帰りになられた。
そうおもうしかないであろう。

孫林父と甯殖は、献公のいとこにあたる公孫剽を君主に擁立した。これが、殤公である。
(『史記』衛康叔世家には、殤公は定公の弟秋と記される。)
孫林父は、殤公の即位を国際的に認めてもらうために、晋へ使者を遣った。
冬に孫林父の食邑である戚で晋が主宰する諸侯会同が開かれ、殤公の即位を含め、衛の現状が認められた。

亡 命

殤公十二年(紀元前五四七年)二月、戚にいた孫林父のもとへ、都にいた家臣が逃げてきた。
「甯氏(甯殖の子甯喜)に邸を急襲され、伯国(孫襄)さまが殺されました」
「孺子め――」
孫林父は天をあおぎ、
「晋へ、ゆく」
と、いうと、戚邑ごと晋へ奔った。これで、戚は晋の邑になった。
甯喜は殤公を弑し、斉へ亡命していた献公を復帰させた。
ほどなく、衛軍が戚の東辺に侵攻してきた。
――禄邑は君主から下賜されたものであるから、出奔するのであれば公室に返還せよ。
これが、衛の言い分である。
古礼に則れば、もっともな見解である。だが、
「戚が脅かされております」
と、孫林父が晋に訟えると、晋は兵を出して戚の東辺にある茅氏を戍った。
衛に亡命していた斉の勇士殖綽が茅氏を攻め、晋の戍兵三百人を殺した。
孫蒯がこれを追撃したが、殖綽の膂力を恐れ、あえて攻撃しようとしなかった。
それをきいて、孫林父は、
「厲(悪鬼)にも劣るやつじゃ」
と、吐き棄てた。これに発奮した孫蒯は、ふたたび衛軍を追撃し、圉でうち破った。
このとき、孫氏の家臣雍鉏が、殖綽を捕らえた。
孫林父は晋の戍兵が殺されたことを告げ、
「衛を伐ちましょう」
と、ふたたび晋に訴えた。
これを受け、晋は六月に衛の澶淵で諸侯会同をおこなってから、衛に攻めこみ、
戚邑の境界を定め、衛の西境にあたる懿氏の六十邑を取りあげて孫氏に与えた。
以後、孫林父は晋人として戚で暮らした。

君子の言

三年後(紀元前五四四年)、衛を訪問していた呉の季札が、晋へむかう途中、戚で泊まろうとした。
「季子が、きたのか」
孫林父は悦び、鐘を鳴らした。それを耳にして、季札は、
「これは異なることよ。われは、才があっても徳がなければ、必ず戮される、ときいている。
あの方は君にそむいてここにいるんだから、懼れてもなお足りないはずじゃ。
それなのに、どうして鐘を鳴らして楽しんでいるのか。
あの方がここにいるのは、燕が幕の上に巣をつくっているようなもんじゃ。
それに衛君(献公)が亡くなってまだ喪も済んでいない。それなのに鐘を鳴らして楽しんでよいものか」
と、孫林父を痛烈に批難し、宿泊をとりやめ、去っていった。
「季子が、そんなことを申しておったのか」
孫林父は季札の発言を伝え聞くと粛然とし、その後死ぬまで鐘鼓はおろか琴瑟の音すらも聴かなかったという。

SHARE
シェアする
[addtoany]

ブログ一覧