『国語』の注釈者 名分論をかざし、孫晧に誅された 韋昭(韋曜)(三国 呉)
江戸時代に寛政の改革を行った老中松平定信を尊敬した。
尊敬する祖父徳川吉宗が行った享保の改革を手本に、
質素倹約を奨励し、弛緩した風紀の粛正を図るべく、
混浴を禁止したりもしたかれが失脚した端緒となったのは、
”大御所事件”であった。
光格天皇が、実父の典仁親王に太上天皇の尊号を贈る意向を幕府に伝えたところ、
「皇位に即いておられない方に、太上天皇の尊号を奉ることはできない」
と、松平定信が名分論をかざして反対した(尊号事件)。
その後、将軍徳川家斉から実父の一橋治済に大御所の称号を贈らんと諮問されたが、
松平定信はまたも名分論をかざして反対し、断念させた。
古来より、中国には、
――物事の名と実を一致させることが、政治の要諦である。
という考え方があり、松平定信もその影響を受けたようである。
三国時代にも、名分論を重んじた人物がいた。
韋昭(あざなは弘嗣)(?-273)(注)
も、その一人であった。
春秋時代に材をとった史書『国語』の注釈者として知られる韋昭は、
呉の国史たる『呉書』を編纂しており、
同書に実父の孫和の本紀を立てるよう皇帝孫晧に命じられた。
しかし、韋昭は、孫和が帝位に即かったことを理由にそれを拒んだ。
それが、かれが誅された遠因であるともいわれる。
松平定信が老中職を解かれてからなお30年以上も生きたことと比べれば、
あまりにも理不尽な感はぬぐえない。
仕えた相手が三国時代を代表する暴君であったことが不運であった、
としかいいようがない。
注:正史『三国志』(呉書)では、司馬昭の諱を避けて韋曜とされる。
中国史人物伝シリーズ
韋昭の『国語』の注釈に多大な影響を与えた孫呉の先達 虞翻
目次
博弈論
韋昭は呉郡雲陽(曲阿)県出身で、若いころから学問を好み、文章をよくした。
仕官して丞相府の掾(属官)となり、地方にでて西安県の令に任じられ、
中央にもどり尚書郎となり、孫和が太子になると、太子中庶子(側近)に遷任された。
孫和に仕えていた蔡穎が、博弈に熱中していた。
博弈とは、囲碁やすごろくあるいは博打といった類の娯楽とされる。
「そんなことやったって、せんないことじゃ」
という孫和の意を受けて、韋昭は博弈を批判する論を展開した。
これが、『博弈論』である。
呉 書
赤烏十三年(二五〇年)に孫和が廃された後、韋昭は黄門侍郎(勅命を伝達する官)に転じた。
建興元年(二五二年)に孫亮が皇帝になり、諸葛恪が輔政をおこなうようになると、韋昭は太史令に推された。韋昭は、
――わが大呉帝国こそが、後漢の正統な後継王朝である。
と、主張すべく、呉の国史たる『呉書』の編纂に、華覈や薛瑩らとともにあたるようになった。
永安元年(二五八年)に、学問を好んだ景帝(孫休)が即位すると、
韋昭は中書郎(取次官)・博士祭酒(太学の首席博士)になり、
むかし劉向がおこなったように諸書の校定にあたるよう命じられた。
景帝は、その後、韋昭を侍講にしようとしたが、左將軍の張布に反対され、断念した。
孫 晧
永安七年(二六四年)に景帝が亡くなり、孫晧が帝位に即いた。
孫晧は皇帝になると、父孫和の旧臣を重用した。
韋昭も例外ではなく、高陵亭侯に封ぜられ、中書僕射(詔勅起草次官)に遷任されたものの
職務を免除されて侍中(顧問官)となり、左国史も兼ね、引き続き『呉書』の撰述にあたった。
このころ、各所から祥瑞の報告があがってきた。
これらの報告が孫晧に阿ったものであることを看抜いていた韋昭は、
「どうおもうか」
と、孫晧から諮われると、
「どこかの家の書物にあったものにすぎません」
と、捏造をほのめかした。
孫晧は、無辜ながら廃位された亡父の無念をおもい、孫和に文皇帝と追謚し、
「文皇帝のために、本紀を立ててもらえまいか」
と、意望を語げてきたが、韋昭は、
「帝位に即いておられませなんだゆえ、伝とすべきです」
と、主張して譲らなかった。
こうしたことが積み重なり、孫晧から叱責を受けることがしだいに増えていくと、
韋昭はますます憂懼し、『呉書』の撰述に専念したいというおもいもあり、
「老いて衰えましたゆえ、官を辞したくぞんじます」
と、願いでた。
しかし、孫晧は聴きいれなかった。
それどころか、韋昭が病に罹ると、孫晧は医者を遣ったり薬を与えたりして看護させた。
下 獄
孫晧がもよおした饗宴は、いつも夜まで続いた。
参加者は下戸であろうと七升(約一・五リットル)呑まなければならず、
呑めない者はみなあたりにこぼして呑んだふりをした。
韋昭はもともと二升までしか酒を呑めず、
はじめのころはいつも量を減らしてもらったり、ひそかに酒の代わりにお茶を賜ったりしていたが、
寵愛が衰えてくると、無理に七升を飲ませられ、呑めずに罰を受けるようになった。
また、酒がまわると、孫晧は侍臣に公卿を批難させ、嘲笑したり戲弄したりして、
かれらの短所をあげつらわせて酒の肴にしていた。
そんなおりに、誤って孫晧の諱を口にしてしまおうものなら、ただちに縛りあげられ、誅戮されたりもした。
――そんなことをしたら、人を傷つけ、恨みをつのらせ、群臣の心を切り離してしまおう。
そう考えた韋昭は、
「公卿を批難せよ」
と、孫晧から命じられても、ただ経書の解釈を論ずるだけであった。
――つまらんやつじゃ。
こうして孫晧の不満をつのらせてしまった結果、韋昭は捕らえられ、獄に下された。
最 期
韋昭は獄吏を通じて獄中から上書し、『官職訓』や『弁釈名』などの著書を献じたいと願いでて、
赦免を請うた。ところが、
「書がほこりにまみれて古びているではないか」
と、孫皎から難癖をつけられ、詰責された。
「書を撰述し、奉呈いたそうとぞんじましたが、
誤謬があることを懼れ、何度も読み返しておりましたうちに、不覚にも汚してしまいました」
そう弁解した韋昭を救わんと、親交していた華覈が、
「韋昭でなければ、史書を完成させることができませぬ」
と、幾度も上疏をおこなってとりなしてくれたが、
孫晧の怒りをおさめることはできず、韋昭は誅殺されてしまった。
鳳皇二年(二七三年)のことである。
韋昭らが編纂した『呉書』は現存しないが、
一部は陳寿が著した『三国志』に引用され、少なからぬ影響をおよぼしたらしい。
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