武帝に信頼された酷吏 張湯(前漢)(3) 破滅
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張湯は武帝の信頼を背に御史大夫(副首相)に昇り、
武帝の意を受けて天下の大事を決定した。
張湯は、自分に都合のよくなるように法を厳酷に適用した。
しかも、処置は公平でなかった。
それゆえ、張湯に怨みをいだくものは少なくなかったであろう。
ところが、張湯を批難しようものなら、武帝の怒りを買って貶斥されてしまうため、
表立って張湯に敵対しようとする者は、たれもいなかった。
中国史人物伝シリーズ
後れてきた大器 朱買臣
目次
軋 轢
李 文
河東郡出身の李文は、張湯に遺恨があった。
かれは御史中丞(御史大夫の属官)になると、
その地位を利用して、張湯の過失をあばいておとしいれようとした。
その動きに、張湯は気が気でならなくなった。
そんな張湯に忖度した者がいた。史(属官)の魯謁居であった。
張湯に気に入られていたかれは、人を使って上奏させ、李文の悪事を告発させた。
案件は張湯に下げ渡され、張湯は審理して李文を死刑に処した。
魯謁居
張湯は、李文を罪におとしいれた告発が魯謁居の差し金であることを察していた。しかし、
「李文の件の出どころは、どこじゃろうか」
と、武帝から諮われると、驚いたふりをして、
「おそらく、李文の旧知の者が怨んでやったのでしょう」
と、応えた。
その後、魯謁居は罹病し、村里の主人の家で寝込んでしまった。
それをきいて、張湯はみずから出かけて病気を見舞い、魯謁居の足をなでさすってあげた。
すると、それを知った趙王から上書があり、
「張湯は大臣でありながら、史の魯謁居が罹病すると、見舞いにおもむき足をなでさすりました。
共謀してとんでもない姦事をたくらんでいるのではありますまいか」
と、告発された。
この案件は、廷尉に下げ渡された。
減 宣
魯謁居はその後病死し、その弟が連坐して捕らえられた。
張湯は他の囚人の審理をしていた際、魯謁居の弟をみかけて、
――助けてやろう。
と、ひそかにおもい、わざと知らぬふりをよそおった。
ところが、魯謁居の弟は、人にたのんで上書してもらい、
「張湯は、魯謁居と共謀して李文の悪事をでっちあげて、告発しました」
と、告発した。
この案件は、御史中丞の減宣に下げ渡された。
張湯と反目していた減宣は、この案件を任されると、徹底的に調べあげた。
荘青翟
そんなときに、文帝の御陵の瘞銭(副葬銭)が盗掘された。
「こんど参内するとき、ともに主上に謝罪しよう」
丞相(首相)の荘青翟は、張湯とそう約束した。
しかし、いざ武帝の御前にでてみると、張湯は、
――季節ごとに陵園を巡視しているのは丞相なんだから、謝罪すべきは丞相で、われの知ったことではない。
と、おもいなおし、謝罪せず、荘青翟だけが謝罪した。
武帝は、御史に盗掘の件を取り調べさせた。
当時は、官吏が人民の犯罪を知りながら、それを見逃せば、その官吏も同罪とされた。
これを、見知の罪といった。
張湯は、荘青翟を見知の罪におとそうとおもい、
――これで、われが丞相じゃ。
と、ほくそ笑んだが、鼎位を目の当たりにしながら破滅しようとは、おもいもよらなかった。
自 決
――田信という商人が逮捕され、張湯の悪事を洗いざらい話したぞ。
そんな話が朝廷内でまことしやかにささやかれているが、張湯は全く気にしなかった。
また、このころには、趙王や魯謁居の弟がした告発を審理した結果が、武帝に上奏されていた。
張湯はいつものように参内すると、
「わしがしようとすることは、すぐに賈人に知られ、ますますそのものが買い占められてしまう。
どうもわしの計画を洩らす者がいるようじゃが」
と、武帝から諮われたが、詫びないばかりか、またも驚いたふりをして、
「きっと、そのような者がおるのでしょう」
と、まるで他人事のように答えた。
この態度は武帝の心証を非常に悪くし、張湯のもとに問責の使者が八たびも遣わされた。
張湯は、そのいずれに対しても、
「そんなこと、しておらぬ」
と、潔白を主張しつづけた。
すると、こんどは趙禹がやってきた。
「あんたはなんという身のほど知らずだ。あんたの裁きで族滅された者は、どれだけあったろうか。
いま、人びとがあんたの罪をいいたてているが、どれも証拠があってのことじゃ。
天子はあんたを獄に送るのをはばかられ、みずから身を処すようにしてくださっているのだ。
くどくどと弁明などしてどうなるものか」
兄事する趙禹からそう責めたてられ、心動かされた張湯は、
「湯は尺寸の功もなく、刀筆の吏から身を起こしました。
かしこくも陛下にはご厚恩をたれたまい、三公にしていただきましたが、
その職責を果たすことができませんでした」
と、謝罪の書簡をしたためてから、自殺した。元鼎二年(紀元前一一五年)十一月のことであった。
武帝の信任を背に幅を利かせてきた張湯であったが、御史大夫になってから七年で敗亡してしまった。
三長史
「共謀して湯を罪に陥れたのは、三人の長史でございます」
張湯は、最期にそう書き遺した。長史とは、丞相長史(首相補佐官)のことで、
朱買臣
王朝
辺通
の三人であった。
三人はみな、もとは張湯より上位にいたが、失脚しているあいだに、張湯の下位に甘んじてしまった。
張湯は三人がかつて高貴であったことを知りながら、いつもかれらをあなどり辱めた。
三人はみな張湯を忌み嫌い、
「はじめ張湯は君といっしょに謝罪しようと約束しておきながら、あとで君を裏切りました。
それどころか、宗廟の事件を利用して君を弾劾しようとしております。
これは、君に取って代わろうと望んでいるからです。われらは張湯の陰事を存じております」
と、丞相の荘青翟を巻きこみ、張湯をおとしいれるべく共謀した。
かれらが積みあげた証拠は、武帝に張湯への疑念をいだかせ、死へ追いやるに至ったのである。
報 復
張湯の遺産は、五百金に満たなかった。
それはみな俸禄や賜物であり、私腹を肥やしてなどいなかった。
親族らが張湯を手厚く葬ろうとすると、張湯の母が、
「湯は天子の大臣となりながら、悪評を被って死んだんじゃ。どうして手厚く葬れよう」
と、いい、遺骸を牛車に載せ、棺だけで椁(外箱)なしで埋葬した。
武帝はそれを聞いて、
「こんな母でなければ、こんな子を生めなかったろう」
と、感心し、徹底的に取り調べて、三人の長史を誅殺した。
そして、荘青翟は獄に下されて自殺した。元鼎二年(紀元前一一五年)十二月のことである。
一方、田信は釈放された。
こうして、御史大夫と丞相および丞相長史の争いは、全員が誅されるという結末に終わった。
それにしても、武帝期の貴人には、悲惨な末路をたどる者がなんと多いことか。
武帝は張湯を哀惜し、その子張安世を引き立てた。
一時の感情にかられて死を賜うたとはいえ、武帝は張湯の才を愛していたのである。
張安世は重臣に昇り、大将軍霍光や宣帝から重んじられた。
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