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中国史人物伝

世渡り上手⁉ 盟主国に取り入って専横のかぎりを尽くし、二たび亡命しながらも権勢を保持した権相 孫林父(孫文子)(1) 専横

春秋時代は覇者の時代ともいわれるが、

楚の荘王が紀元前597年の邲の戦いで勝利して覇者になった後、

君主の権力に衰えがみえはじめ、

晋の六卿
魯の三桓
鄭の七穆

など、大夫が国家を運営する国が多くなった。

衛も例外ではなく、
孫林父
という権臣があらわれた。

孫林父には独特の感覚があったのか、君主をないがしろにして専権をふるい、

二たび亡命しながらも権勢を失わなかったのであるから、

なかなかしたたかな人であった。それができたのは、

盟主国である晋の大夫との親交を重んじる

という政治姿勢を貫いたからであろう。

中国史人物伝シリーズ

魯の三桓 鄭の七穆

目次

亡 命

孫林父は、衛の正卿(宰相)孫良夫(孫良父)の子で、
衛の武公の八世の孫であるといわれる(父は敬称であろう)。
孫林父の名がはじめて史書にあらわれるのは、定公五年(紀元前五八四年)である。
その前年に孫良夫が宋を攻めたという記事があるので、
かれが家督を襲いだのは、その年か前年のいずれかになろう。
かれは家督を襲いだとたん、専権をふるったが、
――君に憎まれている。
と、知り、封邑である戚を土産に晋へ亡命した。
――封邑はなんじの私有物ではない。
盟主国であれば、そうとがめるべきである。
ところが、孫林父は晋で歓待され、戚邑を受けいれてくれた。
すると、定公が後難を恐れて晋を訪れ、弁解した。
そこで、晋は、戚邑を衛へ返還した。
それから、孫林父は晋で亡命生活を送った。

復 帰

定公十二年(紀元前五七七年)の春に、定公がご機嫌うかがいに晋を訪れた。
「孫氏(孫林父)に会ってもらえまいか」
晋の厲公が無理にそう勧めたものの、定公は頑として首を縦にふらない。
――強情なことだ。
内心苦笑した厲公であるが、定公が帰国すると、
「孫氏を衛へ送り、衛君に面会させよ」
と、卿(大臣)の郤犨に命じた。
孫林父は郤犨に連れられて、七年ぶりに帰国の途についた。
そして、郤犨の口ききで、定公に許され、何とか復位することができた。これには、
「あの方は、先君の宗卿(重臣、孫良夫のこと)の継嗣にございます。
それに大国(晋)が口をきいてございます。お聴きいれあそばされなければ、衛は滅びましょう。
いくら憎んでおられるといえども、滅びるよりはましではございませんか。
君は忍びあそばされませ。人民を安んじて宗卿をお宥しになるのもよいではございませんか」
と、夫人の定姜に諫められたことが大きい。
このひと言がなければ、その後孫林父は波乱の生涯を送ることはなかったかもしれない。
はたして、それがかれにとって、そして衛国にとって幸であったかどうなのか。

外 援

孫林父が衛の輔相の席にもどってからしばらくすると、定公が病に罹った。
病状は日を追うごとに悪化の一途をたどり、十月庚寅(十六日)に定公は亡くなった。
妾の敬姒が生んだ太子衎が、あとを襲いで君主になった。これが、献公である。
定姜が哭礼を終えて休息したとき、献公が定公の亡骸のそばにいながら哀しむようすをみせないのをみて、
憤慨のあまり、物を口の中に入れようともせず、
「この子はやがて衛国を乱すばかりか、まずわらわに無礼をはたらこう。
ああ、天は衛国に禍するかな。鱄(献公の弟)を国君にできなかったことが悔やまれる」
と、慨嘆した。これをきいて、衛の諸大夫で聳懼しない者はなかった。
――危いかな。
孫林父は宝器をすべて都から領邑の戚へ移し、晋の大夫との親交につとめた。

面従腹背

献公十一年(紀元前五六六年)秋に、魯の司徒(首相)季孫宿が衛を聘問した。
その答礼として、孫林父は十月に魯を訪れた。
魯の襄公は、孫林父のために饗宴をひらいてくれた。
魯は、礼にうるさい国である。
臣下が君主のあとからのぼる場合、君主が二段のぼってから臣下が一段のぼるのが礼であった。
ところが、襄公が階段をのぼると、孫林父もつづいてのぼってしまった。
襄公の介添えをつとめていた叔孫豹が趨りでて、
「諸侯会同で、寡君にはいままで衛君のあとに階段をのぼったことがありません。
それなのに、いま、あなたは寡君におくれずにのぼりました。
寡君に何か過ちがあってのことでしょうか。どうかもう少しゆっくりのぼってください」
と、話しかけてきた。
――魯君と衛君は同等なのであるから、衛君の臣であるあなたが魯君とおなじふるまいをしてよいものか。
と、忠告したのである。
頭にきた孫林父は返事をせず、行動を悛めなかった。
「孫子はきっと亡びよう。
臣でありながら君のようにふるまい、過っても悛めようとしない。身の亡びる本じゃ」
叔孫豹がそう吐き棄てたときき知った孫林父は、
「ろくな死に方をしないのは、そっちの方じゃ」
と、嘲笑した。
君主がわずか十歳と幼いのをよいことに専権をふるっていながら、
外面は国君に忠誠を尽くし、ことさら礼に則ろうとふるまう魯の大臣のほうこそ性質が悪いではないか。
そうおもったからである。

吉 凶

献公十四年(紀元前五六三年)六月、楚と鄭の連合軍が、宋に攻めこんだ。
「宋を援けねばならぬ」
献公は援兵を発し、襄牛まで進軍した。そこで、
「鄭師、来る」
という急報に接した。
孫林父は邀撃しようとおもい、亀卜で卜った。
――こっ、これは――。
卦をみて、孫林父は血相を変えてしまった。
だが、神託を枉げるわけにもいかないので、定姜に卦をみてもらった。
「これは、いかなる辞でしょうか」
「山陵のような形をしており、出征して将を喪う、というものにございます」
「やはり」
不吉な卦でしたか、と口にしかけて、孫林父は口をつぐんだ。ところが、定姜は、
「出征して将を喪うというのは、攻められた方が有利ということです。大夫には、よくお考えなさいますよう」
と、意外なことをいった。
亀卜の卦の解釈は難しく、人によって真逆の解釈がなされることもあったらしいが、
孫林父が不吉と判じた卦を、定姜は辞で吉に変えてしまった。
定姜のことばに背を押されたように、孫林父は迎撃の兵を発した。
すると、鄭軍を破り、孫林父の子孫蒯が犬丘で鄭の将軍皇耳を捕えた。

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