費禕と諸葛恪の横死を予見した憂国の名将 張嶷(張儀)(三国 蜀)(3) 高識
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異民族の征討で功績を積んだ張嶷は、延熙三年(二四〇年)に越雟太守に任じられると、
剛柔取り交ぜながら、周辺の異民族を従えていった。
そして、帰服した異民族に公正かつ誠実に接し、難しい郡をよく治めた。
張嶷が長所を発揮して出世し、名声を得ることができたのは、
時世にめぐまれたからだけなのであろうか。
中国史人物伝シリーズ
目次
高 識
忠 告
――大将軍(費禕)は気ままに他人をひろく愛し、帰順したばかりの者を信用しすぎておられる。
張嶷はそう感じ、
「昔、岑彭は師団を率い、来歙は節(軍権を示す旗)を仗ついていましたが、二人とも刺客に殺害されました。
いま、将軍の位は尊く権は重いのですから、先例を鑑みて少しは警戒なさいますよう」
と、後漢の功臣を引き合いにだしながら、書翰で費禕を戒めた。
はたして、費禕は延熙十六年(二五三年)の春に、
魏から降ったばかりの郭脩(郭循)という将軍に殺害されてしまった。
諸葛恪を案ず
おなじころ、呉の太傅諸葛恪は魏軍を破ったばかりなのに、大軍をもよおして魏を攻め取ろうと図っていた。
張嶷は諸葛亮の子で、諸葛恪の従弟でもあった侍中(近侍の官)の諸葛瞻につぎのような書翰を送った。
「東主(孫権)は崩じられたばかりで、帝はまことに幼くいらっしゃいます。
太傅は、先帝から帝のことを託されるという重任を受けられました。これは容易なことではありません。
周公の才をもってしてもなお、管叔や蔡叔(周公の弟)にそむかれ、
霍光が武帝から幼い昭帝を託されたときもまた、
燕王旦(昭帝の兄)・蓋公主(燕王の姉)・上官桀らが陰謀を企てました。
が、幸いにも、成王や昭帝の明察により、なんとか難を免れました。
むかしからいつも、東主(孫権)は生殺与奪や賞罰の権限を下臣に任せないと聞いておりました。それが、
今際の際になってにわかに太傅を召し、後事を属託されたということですから、まことに憂慮すべきです。
加えて、呉楚は剽急である、と昔からいわれます。
それなのに、太傅は少主(孫亮)のおそばを離れて敵地に入ろうとなされておいでです。
おそらくは、先のことまで考えた良計とは申せませぬ。
東家(呉)は綱紀が粛然としており、上下が輯睦しているとはいえ、
百のうちひとつでも失敗すれば、聡明な人でも予測できないようなことが起きましょう。
先例をいまの手本にするならば、いまはむかしとおなじといえましょう。
あなたが太傅に忠告なさらなければ、たれが言葉をつくして忠告いたしましょうや。
軍を旋して農事を広め、恩徳を施すよう務めてから、
数年のうちに東と西から同時に挙兵しても、けっして遅くはありません。
どうか、このことをご深慮いただきますよう」
はたして、張嶷の憂慮もむなしく、諸葛恪は魏に攻めこみ、族滅されてしまった。
帰 還
張嶷が越雟太守になってから十五年で、郡内の治安はよくなった。
張嶷は朝廷にたびたび帰還を願いでたあげく、ようやく徴召されて成都へ還ることになった。
民夷は張嶷を恋い慕い、車の轂にすがって涕泣した。
旄牛の邑を通り過ぎたとき、邑君が子どもを背負って迎えにでて、蜀郡との境界までつき従った。
張嶷に随って朝貢した渠帥は、百人をこえた。
張嶷は成都に至ると、盪寇将軍に任じられた。
張嶷には風湿(リウマチの類)の持病があり、成都に至ると病が悪化し、杖がないと起きあがれなくなった。
張嶷は意気が盛んで、多くの士人から貴ばれた。
一方で、礼を無視して気ままにふるまったので、人から譏られもした。
最後の戦
延熙十七年(二五四年)、張嶷が成都へ還ったころ、魏の狄道県長李簡が密書をつかわして降伏を願いでた。
「これは罠です。きっと、よからぬ策がございましょう」
と、群臣はみな疑念をいだいた。しかし、張嶷だけは、
「李簡の降伏は、まことです」
と、主張した。これに隴右(隴山の西側の地域)の情勢にくわしい衛将軍の姜維が、
「さよう。これぞ天の声じゃ」
と、同調し、北伐が決まった。
――張嶷は都に還ってきたたばかりで、病んでいるゆえ、従軍はむりであろう。
姜維はじめ諸将はみなそうおもっていた。
それをきいて張嶷は、病身をおしてみずから姜維のもとを訪ね、
「中原で力のかぎりを尽くし、敵地で身命をささげる所存です」
と、願いでた。
その気迫におされ、姜維は張嶷の従軍を認めるしかなかった。
張嶷は出陣のさい、劉禅に拝謁し、
「臣は聖明な陛下にお仕えし、過分なるご恩をお受けしておりますものの、身に病がございますので、
突然死亡してしまい、ご厚遇にそむくことにならないかと、いつも恐れておりました。
わが願いが天に届き、従軍がかないました。
もし涼州を平定いたしましたら、臣は国境の守将となりましょう。
もし捷てなければ、身を殺してご恩に報いる所存でございます」
と、決意をのべた。
劉禅は慨然として、張嶷のためになみだを流した。
張嶷は姜維に従って隴西に進出した。
狄道に到ると、李簡は城中の吏民を率いてかれらを出迎えた。
張嶷は進軍して魏の将徐質と鋒を交え、戦死してしまった。
しかし、自軍の倍を越える敵兵を殺傷する奮闘をみせた。
越雟の蛮民で、張嶷が死んだときかされてなみだを流さなかった者はなかった。
かれらは張嶷のために廟をたて、これを祀った。
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