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中国史人物伝

剛柔使い分けて乱世を生き抜いた功臣 寇恂(後漢)(1) 建武の蕭何

「国家を鎮め、百姓を撫り、糧食を給して糧道を絶やさないことではおよばない」

漢王朝を開いた劉邦からそう評された蕭何と同様の評価を、のちに劉秀(光武帝)が、

寇恂(あざなは子翼)(?-36)

に対してした。

寇恂の異能は行政のみにとどまらず、旗鼓の才も発揮した。

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目次

寇 氏

寇恂は、上谷郡昌平県の名家の出身であった。
寇氏の遠祖は、商(殷)の紂王の妃妲己の父とされる蘇忿生であるといわれ、
蘇忿生が周の司寇(司法大臣)に任じられたことから、寇氏と称したという説がある。
それはさておき、王莽が漢から帝位を簒うと、各地の地名の多くを改称した。
上谷も例外ではなく、朔調と改称された。
寇恂は郡の功曹(人事部長)になり、連率(太守)の耿況からたいそう重んじられた。

印綬奪還

更始元年(二三年)、王莽が滅び、更始帝が立つと、使者がやってきて、
「先に降る者には、もとの通りの爵位をあたえよう」
と、いってきた。
寇恂は、耿況に従って使者を郡境で迎えた。
耿況は使者に印綬を奉呈し、恭順の意を示した。
「殊勝である」
使者はそういって印綬を受けとったものの、一晩経っても印綬を還す素振りをみせなかった。
寇恂は兵を従えて宿舎にはいって使者に会い、
「印綬をお還しいただきますよう」
と、請うた。
ところが、使者は印綬を渡さずに、
「天子の使者を、功曹は脅そうとするのか」
と、いった。これに対して、寇恂は、
「使君を脅すつもりはございません。計が十分ではないことを残念におもってのことです。
いま、天下はようやく定まりましたが、国家の威信はまだはっきりとしめされてはおりません。
それなのに、いま、上谷にきて威信を失い、王命に従おうとする気もちを失わさせ、離反の隙を生じさせれば、
どうやって他の郡に号令なさるおつもりなのでしょうか。
それに、耿府君は上谷にあって、久しく吏人に親しまれております。これを替えてしまえば、
賢人を得たとしても急なことにて民心は安定せず、賢人でなければさらに乱れましょう。
使君のために考えますれば、耿府君を復して、百姓を安心させるにこしたことはございません」
と、いった。
これに対し、使者はなんの反応も示さない。
そこで、寇恂は使者の左右の者を叱りつけ、使者の命と称して耿況を呼びにゆかせた。
耿況がやってくると、寇恂は使者から印綬をとりあげて耿況に帯びさせた。
使者は、やむを得ずこれを追認するしかなかった。

挙 兵

そのころ、劉秀が更始帝の命を受け、河北平定におもむいていた。
その背後を衝くように、邯鄲の占い師王郎が、皇帝を自称して挙兵した。
翌年(二四年)、王郎の部将が上谷郡にやってきて、耿況に兵を出すようせかしてきた。
寇恂は、門下掾(太守の属官)の閔業とともに、
「王郎はにわかに起こったもので、信頼すべきではありません。
王莽の時代、難敵は劉伯升(劉縯)のみでした。
きくところによりますれば、大司馬の劉公(劉秀)は劉伯升の同母弟で、賢人を尊び士に遜るので、
多くの士が心服しているそうです。頼るなら、劉公を頼るべきです」
と、耿況を説いた。これに対し、耿況は、
「邯鄲(王郎)の勢いは盛んで、独力で拒むことができない。いかがいたそう」
と、問うた。そこで、寇恂が、
「いま、上谷には控弦(射的兵)が一万騎あり、郡にある十分な蓄えをもってしますなら、
どこにつくか択ぶことができます。
どうかわれを東のかた漁陽にお遣わしになり、盟約を結ばさせてください。
二郡がひとつにまとまれば、邯鄲など恐るるに足りません」
と、自信をもって応えると、耿況は、
「もっともじゃ」
と、その意見に従い、寇恂を漁陽に遣わした。
寇恂は漁陽に到ると、漁陽太守の彭寵と謀をあわせた。
その帰途、昌平県に至り、王郎の使者を襲撃して殺し、その軍を奪った。
そして、耿況の子耿弇らとともに南へ向かい、呉漢らが率いる漁陽の軍と合流した後、
広阿県にいた劉秀のもとへ馳せ参じた。
寇恂は偏将軍を拝命し、承義侯に封じられた。
寇恂は劉秀に従って群賊を破り、劉秀の片腕ともいうべき鄧禹と幾度も謀議を重ねた。
鄧禹は牛や酒をもってきて、寇恂と親交を深めた。

建武の蕭何

更始三年(二五年)、劉秀が河内郡を平定すると、寇恂は鄧禹の推挙で河内太守を拝命した。
河内郡からみて、河水(黄河)の対岸にあたる洛陽に、更始帝の大司馬の朱鮪らが大軍を擁していた。
「河内はたいへん豊かであるから、われはそこを押さえて飛躍したい。
むかし、高祖(劉邦)は蕭何に関中を任せた。われはいま、公に河内を委ねる。
堅く守って物資を輸送し、軍糧を補給し、士馬を率いて励まし、
敵兵を防ぎ、(黄河の)北へ渡らせないように」
劉秀からそういわれて、寇恂は河内に送りだされた。
天険の要害であった関中とは違い、河内の地形は守るに適しないばかりか、近くに大軍がひかえている。
難しい任務を与えられた寇恂は、属県に文書を送り、軍事演習をおこなわせ、
淇園の竹を伐って百余の矢をつくり、二千匹の馬を養い、
租(年貢)を四百万斛(約八万立方メートル)納め、劉秀の軍に送った。

旗鼓の才

更始三年(二五年)、洛陽から蘇茂を将、賈彊を副将とする三万余の兵が発せられ、
河水を渡って温県に攻め込んできた。
急報に接し、寇恂はただちに出陣するとともに、属県に温県に兵を集めるよう布告を送った。
「洛陽の兵は、河を渡って続々とやってきます。属県の兵が集まりきってから戦うべきです」
軍吏たちが、こぞってそう諫めてきた。
治所で徴集した兵は寡なく、とうてい洛陽の大軍にかなうまい。
しかし、寇恂の見解は違った。
「温は郡の藩蔽(要地)である。温を失えば郡は守れない」
寇恂はそういって、馳せて温県に赴いた。
翌日、両軍は朝から戦った。
合戦中に、偏将軍の馮異の援軍や諸県の兵などが集まり、幡旗は野を蔽った。
寇恂は士卒に命じて城にのぼって鼓噪させ、
「劉公の兵、到れり」
と、さかんに叫ばせた。
すると、蘇茂の兵は動揺をみせた。
「それっ、いまだ――」
寇恂は出撃して、敵を大破すると、敗走する敵軍を追撃して洛陽に至り、ついに賈彊を斬った。
蘇茂の兵でみずから河水に身を投げて死んだ者は数千人、捕虜は一万余人におよんだ。
寇恂は馮異とともに河水を渡り、河内に還った。
これより洛陽は震恐し、城門は昼も閉じたままであった。
寇恂は劉秀に檄書を送り、勝利を報告した。
「われ、寇子翼の任ずべきを知る」
と、大喜びした劉秀は、諸将からの勧めをうけ、六月に帝位に即き(光武帝)、建武と改元した。

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