武帝に信頼された酷吏 張湯(前漢)(2) 絶頂
地位は人格を陶冶するのであろうか。
張湯は大臣になると、すっかり品行がよくなった。
賓客と交際しては飲食を供し、旧知の人の子弟で官吏になった者や貧しい兄弟には、
手厚く面倒をみてあげた。
また、寒暑をいとわず諸公を訪ねた。
それゆえ、張湯は声望を得ることができた。
丞相(首相)の公孫弘からも、称められることが多かった。
中国史人物伝シリーズ
目次
御史大夫
元狩元年(紀元前一二二年)からその翌年にかけて、
淮南王劉安・衡山王劉賜・江都王劉建らが謀叛を起こした。
張湯は、この事件を徹底的に追及した。
そのなかで、荘助と伍被にも嫌疑がおよんだ。
武帝は、ふたりを赦そうとした。しかし、張湯は、
「伍被は謀叛の張本人です。また、荘助は陛下に親愛され、宮中に出入りをゆるされた爪牙の臣でありながら、
諸侯と通じました。こうした者どもを誅しなければ、今後罪を裁くことなどできなくなりましょう」
と、諫争した。
武帝は張湯の意見をいれ、ふたりを有罪とした。
張湯はますます武帝に尊重され、元狩二年(紀元前一二一年)に、御史大夫(副首相)に遷任された。
天下の大事
元狩二年(紀元前一二一年)、匈奴の渾邪王らが漢に投降してきた。
それを機に、漢は大軍を発して匈奴を伐った。
また、山東(函谷関以東)は水害や旱害に見舞われ、貧民が流浪し、朝廷に衣食を仰いだ。
そのため、府庫がからになった。
張湯は武帝の意をうけて、
白金(銀と錫を合金した貨幣)と五銖銭(銅貨、一銖は約〇・六七グラム)を鋳造するとともに、
天下の塩と鉄を専売にした。その一方で、富商や大賈を排除し、
告緍令(所得税を納めない者を告発すれば、その税額の半分が与えられるという法令)を発して豪族を除き、
法文を都合よく解釈して巧みに人を罪におとしいれ、法の不備を補おうとした。
張湯が参朝して政事を奏上し、国家の財政について語るたびに、武帝は日が暮れるまで食事も忘れて傾聴した。
その結果、丞相はただその位を占めているだけで、天下の大事はすべて張湯によって決定されるようになった。
そうなると、国家が定めた制度が成果をあげないうちに、姦吏がこぞって利を貪ってしまうため、
人民は安心して暮らすことができずに、騒動をおこした。
朝廷が姦吏を徹底的に検挙して処罰したところ、
公卿以下庶民に至るまで、みなその張本人は張湯であるといった。
それなのに、張湯が病に罹ると、武帝はみずからその病牀を見舞うのであった。
詐 忠
匈奴が、使者を遣わして和親を申し入れてきた。
群臣が、武帝の御前で評定をおこなった。
その席で、博士の狄山が、
「和親するのがよろしゅうございます」
と、意見を述べた。
「なにゆえか」
武帝からそう諮われ、狄山は、
「兵は凶器なり」
と、いい、つづけて、
高祖(劉邦)や文帝が匈奴に苦しめられたこと、景帝が呉楚七国の叛乱で憂慮したことなどを列挙し、
「いま、陛下が兵を挙げて匈奴をお撃ちなさいましてから、中国の国庫はむなしくなり、
辺境の民はひどく困窮しております。そういったことを考えますと、和親するのがようございます」
と、結んだ。
「御史大夫は、どうじゃな」
武帝が張湯に諮うと、
「こやつは愚儒で無知です」
と、応えた。これに狄山がいきり立ち、
「臣はもとより愚忠でありますが、御史大夫湯なんかは詐忠であります。
湯が淮南王や江都王を裁いたときは、法を厳しく適用して、諸侯を無理に罪に抵て、
骨肉を離間し、藩臣を不安にさせました。臣はもとより湯の詐忠を存じております」
と、告発した。
これをきいて色をなし、
「そなたを一郡の太守にしたら、胡虜(匈奴)の侵寇をやめさせられようか」
と、狄山に訊いたのは、張湯ではなくて武帝であった。
「できません」
「一県ではどうか」
「できません」
「一障(要塞)ならどうか」
武帝からそう訊かれ、狄山は一瞬ことばに詰まったものの、
「できます」
と、応えた。
そこで、武帝は狄山に辺境のとりでを守らせた。
それから一か月あまりして、匈奴が狄山の首を斬って去った。
それ以後、群臣は震慴し、あえて張湯に敵対しようとしなくなった。
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