始皇帝暗殺 傍若無人ながら刺客になり切れなかった俠士 荊軻(戦国 燕)(3) 風蕭蕭と
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――もと秦の将軍であった樊於期の首と燕の督亢の地図を手土産に、秦王に近づかん。
荊軻は、そう考えた。
樊於期とは、何者であったのか?
樊於期は秦の将軍桓齮と同一人物である、とする説がある。
桓齮は紀元前233年の肥下の戦いで趙の名将李牧に敗れた後、消息が不明である。
ゆえに、桓齮が樊於期に名を変えたとしても齟齬はない。
寵愛をかけていた将が、敗れて逃亡したので、秦王が憎悪の念を抱くようになった、
というのは、不自然ではない。
よって、傾聴に値する説ではあるが、それを裏付ける史実はない。
中国史人物伝シリーズ
趙国最後の名将 李牧
目次
樊於期
――太子は、樊将軍を殺すのに忍びない。
そうさとった荊軻は、ひそかに樊於期に面会を申しでて、
「秦の将軍への仕打ちは、まことにひどいと申せましょう。父母宗族みな殺しにされたそうですね。
しかもまた、将軍の首に黄金千斤と万戸の邑をかけているとも耳にしております。いかがなさいますか」
と、訊いた。樊於期は天を仰いで長大息し、
「われはそのことをおもうたびに、いつも骨の髄まで痛みをおぼえます。
いろいろと考えてみるのですが、どうすればよいかわかりません」
と、涙を流しながらいった。
「いま、ひと言で燕国の患いを除き、将軍の仇に報いる策がございますが、いかがでしょうか」
荊軻がそういうと、樊於期は身をのりだして、
「どうするというのですか」
と、訊いた。
「願わくは将軍の首を頂戴し、秦王に献上させてください。
秦王はきっと喜んでわれを引見しましょう。
そのときに、左手で秦王の袖を押さえ、右手で秦王の胸を刺します。
そうすれば将軍の仇は報いられ、燕国の恥もすすがれましょう」
荊軻はそういって策を披露し、
「将軍は、この策にご同意いただけましょうや」
と、問うた。
樊於期は片肌を脱いで扼腕し、ひざを進めて、
「これこそ、われが日夜歯がみして心を悩ませていたところです。
こたびはまことによいご教示にあずかりました」
と、いい終わるや、自刎してしまった。
太子丹はこれを聞くと、樊於期のところへ駆けつけ、屍体にすがって慟哭した。
かといって、それで樊於期が生き返るわけでもないので、やむなく樊於期の首を函におさめて封をした。
催 促
「これをつかってください」
太子丹はそういって、荊軻に匕首を手渡した。
「趙人の徐夫人がもっていたものです」
むろん、匕首には毒薬が塗られている。
「秦舞陽を連れていってください。きっと役に立ちましょう」
秦舞陽(『戦国策』には、秦武陽)は、昭王のときの賢将秦開の孫で、
十三歳で人を殺し、燕国でかれをまともにみる者などいないほど恐れられていた勇士であった。
荊軻には待ち人(史記索隠によれば、楚人の薄索であるという。)があり、
その人が燕にやってきてから、ともに秦へゆくつもりであった。
ところが、太子丹がやってきて、
「日数はもうあまりございません。荊卿にはなにかお考えがおありでしょうか。
それでしたら、先に秦舞陽を遣わしたく存じます」
と、語げてきた。
なかなか出立しない荊軻に、太子丹は焦れたのであろう。
――なにゆえ、信じてもらえないのか。
荊軻は怒って、太子丹を叱りつけていった。
「なにゆえそんなことをなさるのですか。
往ったきりで返ってこないなんて、豎子がするようなことです。
いま一ふりの匕首を携えるだけで、前途の予測が困難な強秦にはいるのです。
僕がとどまっているのは、客人を待ってともにゆこうとせんがためです。
それを太子が遅いとおぼしめしでしたら、いとまごいつかまつろう」
そう話すうちに、荊軻は内心悲しくなりながらも、
――こうなれば、なるようにしかならん。
と、肚をくくるしかなかった。
風蕭蕭と
ついに、荊軻は重い腰をあげた。
太子丹とこのことを知っている賓客たちは、みな白衣および白冠(喪服)を身につけて荊軻を見送った。
一行は、易水のほとりまできた。
そこで道祖神を祀り、旅路につこうとした。
高漸離が筑を撃ち、荊軻がそれに和して歌った。
悲壮な調子の曲であった。
みなが、涙を流して泣いた。
荊軻は、さらに進みでて歌った。
風蕭蕭として易水寒し(ふきわたる風の音はものさびしく、易水は冷たい。)
壮士一たび去りてまた還らず(われらはひとたびここを発てば、もう還ってこない。)
荊軻がこの歌を激しく昂った調子で繰り返し歌って慷慨すると、
みなが目を瞋らし、頭髪はことごとく逆だって冠を衝きあげるほどであった。
荊軻は歌い終えると、車に乗って出立し、二度とうしろを振り返らなかった。
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