北狄から帰化し、二子を重耳に仕えさせる先見の明をみせた晋の名臣 狐突(春秋 晋)(3) 韜晦
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狐突の苦悶もむなしく、申生は驪姫の悪計にかかり生命を絶った。
驪姫らは献公の死後に殺されてしまい、恵公(夷吾)が迎立された。
恵公は恩を仇で返す行為を繰り返し、国人に非難された。
そこで人気取りをせんとばかりに、兄の申生を改葬した。
ところが、悪臭が外に漏れ出てしまい、批判をより強めてしまった。
そんななか、韜晦を続ける狐突は、おもわぬ人物と接触する。
中国史人物伝シリーズ
目次
神 託
狐突が、馬車を御して曲沃へむかった。その途次に、
「伯行(狐突のあざな)」
と、声をかけ、車上に乗りこんできた者がいた。
「たれか」
と、誰何しようとした狐突が声のする方を振り向いて、おどろいた。
なんと、死んだはずの申生がいるではないか。
信じられないことではあるが、狐突の目には、申生のすがたがはっきりと映っていた。
驚き惑う狐突を尻目に、申生は語りかけてきた。
「夷吾は無礼じゃ。われは晋を秦に与えたいと天帝にお願いし、お許しをいただいた。
秦がわれを祀ってくれるであろう」
「臣は、神は異族の祀りを享けず、民は異族を祀らない、と聞いております。
晋を秦に与えれば、君の祀りは絶えてしまうことになりますまいか。
それに民に何の罪がありましょう。君にはよくお考えあそばされますよう」
「わかった。もう一度天帝にお願いしてみよう。
七日したら新城(曲沃)の西のはずれに巫者があらわれよう。その巫者を通してわれに会いなさい」
「かしこまりました」
狐突がそういうと、隣にいた申生のすがたは忽然と車上から消えた。
車上に取り残された狐突は、奇異に思ったものの、七日後、ふたたび馬車を御して曲沃の西はずれへむかうと、
はたして、巫者のすがたがあった。
狐突が巫者のもとへゆき、話しかけました。
「太子にいわれてきたのじゃが」
狐突が、巫者にそう話しかけると、
「天帝はわれに有罪の者を罰することをお許しになられた。韓で敗れるであろう」
と、申生の声が聞こえてきた。
「韓ですとーー」
と、狐突がおもわず叫んでしまったときには、申生の声はもうしなくなった。
韓は、晋の西方にある韓原という地であり、有罪の者とは、恵公のことにほかならない。
話の内容にただならぬものを感じた狐突は、急ぎ絳へ戻り、恵公に謁見し、事の次第を告げた。
だが、恵公はまともにとりあってくれなかった。
――もう勝手にすればよい。
閉口した狐突は、老齢と称して致仕(引退)した。
はたして、恵公六年(紀元前六四五年)に晋は秦と韓原で戦い、大敗を喫した。
辞 世
失政が相次いだうえに戦に敗れてしまい、晋の国人は恵公からすっかり心を離し、重耳の帰国を心待ちにした。
重耳の従者のうち、孤偃の評判が特によい。
それをきくたびに、狐突は胸のすくおもいがした。
いつしか、重耳に随って帰国する子や孫を迎えるのが、隠居暮らしを過ごす狐突の楽しみとなった。
そんななか、恵公十四年(紀元前六三七年)九月に恵公が亡くなり、太子圉が後を襲いだ。これが懐公である。
懐公は即位すると、
「亡人(重耳のこと)に従うことなかれ。期日までに帰国せねば、赦してはおかん」
という命を発した。
狐突は、この命を聞き流した。
そのため、ほどなく捕らえられ、
「子が帰ってくれば、赦してやろう」
と、懐公に脅された。
だが、狐突がそのような脅しに屈するわけがない。
「子が仕官できる年齢に達すれば、父は子に忠義を教えるのが、古の制度です。
名を策(名簿)に記し、礼物を献上して臣下の列に連なったからには、二心を抱くことは罪になります。
いま、臣の子は、重耳の臣下となってから久しくなります。
それをもし呼びもどせば、かれらに二心を教えることになります。
父が子に二心を教えれば、どのようにして君にお仕えすればよろしいのでしょうか」
狐突は、孫に教えさとすようにそういった。
だが、それをきいて、懐公は狐突を睥睨したのであるから、
狐突の説諭は、懐公の心に染みなかったようである。
--こんな君主のもとで、これ以上生き続けても、不毛じゃろう。
そうおもった狐突は、
「刑を濫用しないのは、君が英明ということであり、これが臣の願いです。
刑を濫用してご自分のお気持ちを満たそうとするならば、罪にかからない者などおりましょうか。
臣はご命令を承りました」
と、述べ、従容と刑罰を受け容れる意を示すと、一礼し、退出した。
あと数か月すれば、帰国する子や孫を迎えられる、というところで孤突はこの世を去った。
このとき、かれの胸に去来したものは、無念であったろうか、
それとも、子らがよくいたしてくれた、という満足感であったろうか。
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