費禕と諸葛恪の横死を予見した憂国の名将 張嶷(三国 蜀)(2) 越雟太守
目次
越雟太守
建興三年(二二五年)に叟族の王(族長)であった高定が丞相の諸葛亮に討伐されてから、
越嶲郡では叟夷がしばしばそむき、太守の龔祿を殺した。
以後、太守はあえて赴任しようとはせず、郡から八百余里離れた安上県にとどまるしかなかった。
――旧郡を復してほしい。
世論がそう望むなか、延熙三年(二四〇年)に越雟太守に任じられた張嶷は、
手勢を率いて郡へ往き、恩徳と信義をもって叟族を招誘した。
すると、蛮夷はみな服し、郡にきて降り、帰順する者が数多あらわれた。
北徼(国境)にいる捉馬族は最も驍勁で、蜀漢に従わなかった。
そこで張嶷は征討におもむき、捉馬族の渠帥の魏狼を生け捕り、
部下に帰順するよう告げさとして解き放ち、残党を招き懐かさせた。
張嶷は魏狼を邑侯にするよう上表し、部落三千余戸はみなその土地に落ちついた。
それをきいて、諸部族がつぎつぎに降伏した。
この功により、張嶷は関内侯の爵位をたまわった。
冬逢と隗渠
蘇祁の邑君(族長)である冬逢と、その弟隗渠らが、いったん降ったのにまたそむいた。
張嶷は冬逢を誅したが、旄牛王の女であったその妻は許した。
一方、隗渠は逃れて西徼(国境)にはいった。
張嶷のもとに、隗渠の部下であった二人が降服してきた。
――さぐりにきたな。
張嶷はそう看抜き、二人に厚い恩賞を約束してうその情報を流し、反間を試みた。
すると、二人は恩賞に目がくらんで共謀し、隗渠を殺した。
隗渠は剛猛で素早く、諸部族から非常に畏れ憚られていた。
それゆえ、隗渠が死ぬと、諸部族はみな安心した。
また、斯都の渠帥の李求承は、その昔、越雟太守の龔祿を殺した男であった。
張嶷は懸賞をだして李求承を捜索させ、逮捕すると、旧悪を枚挙して誅した。
塩と鉄
赴任当初、郡の郛宇(城郭)が崩壊していたため、張嶷は小塢(とりで)を築いた。
太守になってから三年でもとの郡にもどることになったが、
城郭を修繕したさい、蛮夷の男女で力を尽くさないものはなかった。
越嶲郡の郡都から三百余里離れたところにある定莋・台登・卑水の三県は、
ふるくから塩、鉄および漆を産出し、
夷徼(国境に住む蛮夷)は長いあいだみずからこれらを採取し、利用していた。
張嶷は兵を率いてそれらを奪い取り、郡の長吏(高官)に割り当てようと考えた。
これに忿怒した男がいた。
定莋の率豪(渠帥)狼岑である。
狼岑は槃木王の舅で、蛮夷からひじょうに信頼されていた。
そのことを背景に、かれは張嶷が定莋に到ったとき、張嶷のもとへ出向かなかった。
――なめげな――。
張嶷は壮士数十人を直ちに往かせて狼岑を逮捕させ、撻って殺し、
屍体を狼岑の部族に還し、厚く賞賜を加え、狼岑の悪事を説明したうえで、
「みだりに動いてはならぬ。動けばただちに殄滅するぞ」
と、威した。部族の者らはみな面縛して過ちを謝した。
「わかってくれれば、それでよいのじゃ」
張嶷は牛を殺して饗宴をもよおし、重ねて恩徳と信義を説いた。
こうして塩と鉄を得、必要なものがあまねくいきわたるようになった。
旄牛族
懐 柔
漢嘉郡の郡界に、旄牛族に属する夷が四千余戸あった。
かれらを率いる狼路は、姑壻(おばの夫)にあたる冬逢の怨みに報いんとして、
叔父の離に冬逢の手勢を率いさせて様子をうかがわせた。
張嶷はそれを知ると、側近を離のもとに遣って牛と酒を贈って労をねぎらうとともに、
離に姉である冬逢の妻をむかえさせ、恩を売った。
離は贈物を受けたばかりか、姉に会うこともできた。
姉弟ともに大喜びし、離は手勢をすべてひきつれて張嶷のもとへ出向いた。
「ようきてくれた」
張嶷はかれらを手厚くもてなし、賞賜して還した。以後、旄牛は患いをなさなくなった。
道を開く
越嶲郡には旧街道があり、旄牛の中を経由して成都に至り、平坦なうえ近道でもあった。
旄牛がこの道を絶ってからすでに百年を超え、成都へは安上を経由して往還していたが、
険阻なうえ遠回りを余儀なくされた。
張嶷は左右の者を遣って狼路に貨幣を贈り、さらに狼路の姑にあたる冬逢の妻に趣旨をいいふくめさせた。
そこで狼路は、兄弟妻子すべてをひきつれて張嶷のもとへ出向いた。
張嶷は狼路と盟誓して旧街道を開通させ、千里の道を整え清め、むかしの亭駅(宿場)を復活させた。
狼路を旄牛㽛毗王に封じるよう上奏し、使者に案内させて狼路に朝貢させた。
劉禅は張嶷に撫戎将軍の号を加え、越雟太守と兼任させた。
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