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中国史人物伝

武帝に信頼された酷吏 張湯(前漢)(1) 出世

漢王朝は、初期には苛酷な法を取り除き、寛大な統治を行った。

それが武帝期になると、酷吏が積極的に登用されるようになった。

酷吏とは、法の適用や刑の執行が苛酷で無慈悲な役人をいう。

かれらは法を自分たちに都合よく解釈し、気に入らない者を巧みに罪に抵てた。

その代表ともいうべき人物が、
張湯 (? -前115)
であった。

張湯は小吏から身を起こし、徒党を増やす一方、

巧智を駆使して政敵を排除し、武帝の信頼を得て御史大夫(副首相)にまで昇った。

かれはその異才の片鱗を、幼少時にすでにみせていた。

中国史人物伝シリーズ

目次

獄官ごっこ

張湯は、杜陵県の出身であった。
まだ子どもであったころ、長安県の丞(獄官)であった父が外出し、かれが留守居をしたことがあった。
父が帰ってみると、鼠に肉を盗まれていた。
「留守番すらまともにできんとは――」
張湯は父に怒られて、笞うたれた。
すると、張湯は、
――鼠を裁かねば。
と、おもい、鼠の巣穴を掘りかえし、燻した。
そして、盗んだ鼠と食べ残しの肉をみつけだすと、鼠を取り調べて笞うち、
逮捕状をつくり、供述調書をとり、尋問して論告求刑した。
それから、鼠を取りおさえ、肉を取りあげて、獄を設けて堂下で磔の刑に処した。
――ちゃんと獄官の手続きをふんでいるではないか。
父がそうおもいつつ書類の文辞を視たところ、まるで老練な獄吏のようであった。
父は大いに驚き、訴訟に関する文書を書かせるようにした。

仕 官

父の死後、張湯は長安の吏になった。
田太后(武帝の母)の同母弟田勝が長安の獄に繋がれていたとき、張湯は田勝が赦免されるよう力を尽した。
田勝が出獄して周陽侯になると、恩返しとばかりに大いに張湯と親交し、多くの貴人を紹介してくれた。
その後、張湯は給事(側近)として内史(都知事)に仕え、甯成(または寧成)の掾(属官)になった。
そこで成績優秀とされ、丞相府に推薦された。
そして、茂陵(武帝の寿陵)県の尉(県警本部長)に選ばれ、方中(陵)の工事を監督した。

出 世

建元六年(紀元前一三五年)、田勝の兄田蚡が丞相(首相)になると、
張湯は召されて史(属官)となり、田蚡の推薦で侍御史(監察官)に補任された。
数年後、張湯は、陳皇后が武帝に寵愛されていた衛子夫(衛皇后)を巫蠱で呪詛した事案を取り調べ、
その一党を厳しく追求した。
この件で武帝に認められ、太中大夫(皇帝の顧問官)に遷任された。
張湯は同僚の趙禹とともに多くの律令を制定し、
法を厳しくし、職務に当たる官吏を法で拘束するようつとめた。
張湯は元朔三年(紀元前一二六年)に廷尉(司法長官)になり、趙禹は少府(宮内大臣)になった。
お互い大臣に昇ってからもふたりは親しく交わり、張湯は趙禹に兄事した。
趙禹は廉潔で、孤立してでもおのれを貫いたが、張湯は知恵をめぐらせて人を制御した。
張湯はまだ小役人であったころ、商いをして私利をはかり、長安の富商田甲や魚翁叔らとひそかに交際したが、
九卿󠄁(大臣)に連なるようになってからは天下の名士を手なずけ、
内心では気の合わない相手でも、うわべでは親しくつきあっているようにみせかけた。

廷 尉

――主上は、儒学に関心がおありのようじゃ。
そう知ると、張湯は、博士官(皇帝の顧問官)の弟子で、
『尚書』や『春秋』に通じている者を廷尉の史(属官)に補任してもらい、
大獄の判決をくだす際に、古典の義に附会させるとともに、疑わしいものを判断させた。
張湯は、罪の疑わしいものを上奏して武帝の決裁をあおぐ場合には、
必ずあらかじめ疑問点の根拠を明らかにしておき、
武帝が是としたものを判決文に明記して、武帝の賢明さを宣揚した。
また、事案を上奏して武帝から譴責されたら、張湯は謝り、武帝の意に沿うようにしたが、
その際には必ず廷尉の属官で賢明なものを引きあいにだして、
「かれらが臣のために議してくれたことは、陛下が臣をお責めになられた通りのものでございました。
ですが、臣がそれを用いなかったため、愚かにもこのような不始末をおかしてしまいました」
と、申しあげた。そして、そのたびに不問に付されるのが常であった。
また、事案を上奏して武帝にほめられたら、
「臣はこのような上奏がなされたことを知りません。史の某がしたことでしょう」
と、申しあげた。
このように、張湯は部下を推薦しようとして、部下の美点を称揚し、過失をおおいかくそうとした。
裁かれる者が武帝が罰したいと意っている者であれば、厳酷で罪を重くしがちな監や史に身柄を引き渡し、
武帝が赦そうと意っている者であれば、罪を軽く公平にしようとする監や史に身柄を引き渡した。
裁かれる者が権勢のある豪族であれば、きまって法を都合よく解釈して巧みに罪におとしいれ、
貧しい者であれば、
「法では有罪にあたりますが、陛下にはお察しいただきますよう」
と、武帝に進言し、ゆるされることもあった。

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