北狄から帰化し、二子を重耳に仕えさせる先見の明をみせた晋の名臣 狐突(春秋 晋)(2) 申生の死
狐突は、北狄から晋に帰化し、献公の太子申生に仕えた。
献公は、老いてから夭い驪姫の美貌におぼれ、そのいいなりになった。
それをよいことに、驪姫はわが子奚斉を太子に立てようと、
申生の悪口を献公の耳に吹きこみ、申生らを都から追いだすことに成功した。
驪姫の悪計は、とどまることを知らない。
――このままでは、太子はどんな目に遭わされるかわからない。
と、狐突は苦悶した。
献公17年(紀元前660年)、申生は献公から狄討伐の将に任じられた。
――これを機に、太子を連れて他国へ亡命しよう。
狐突はそう考えながら、申生の兵車を御していた。
中国史人物伝シリーズ
目次
決 意
稷桑という地で、狄が晋軍を邀撃してきた。
「おおっ、きたか」
申生が応戦しようとしたので、狐突は、
「なりません。国君が寵臣を好めば、大夫は危うく、内寵を好めば、嫡子が危うい、と聞きます。
いまや、晋で内乱が起きるのは必定。太子はお立ちになることができましょうや。
太子は生きて孝道を行い、民を安んずることをお考えくだされ。
戦って御身を危険にさらして、内からの讒言を起こして罪を招くのと、どちらがよいでしょうか」
と、諫めた。
申生の本当の敵は、まえではなく、うしろにいる。
都から遠く離れたところにいるいましか、危難から脱することができる機会はない。
それだけに、狐突はいつになく強い口調で申生を諌めた。
しかし、申生は首を横に振った。
「君がわれを使うのは、われを喜んでいるわけではなくて、わが心を試しておられるのだ。
それゆえ、われに奇服を賜り、われに兵権をお授けになられたのだ。
また、甘言もある。言がおおいに甘いならば、その中は必ず苦く、譖言がその中に含まれる。
それゆえ、君はそのようにおもわれたのであろう。
木食い虫のような譖言といえども、どうして避けることができようか。
戦うほうがよい。戦わないで帰れば、わが罪はますます大きい。戦って死ねば、令名が残ろう」
これが、申生の決意であった。
すべてをわかったうえで、悩みに悩みぬいたうえに出した結論なのであろう。
――もはや、なにもいうまい。
こうなれば、すべてを天にゆだねるしかない。
「ゆこう」
申生は兵を進め、狄を破った。
凱旋すると、狐突は門を閉ざして、外出しなくなった。
申生の死
献公二十一年(紀元前六五六年)、驪姫の使者が君命と称してやってきて、
「君は、夢に斉姜さまをご覧になられました。速やかにお祀りなさいませ」
と、申生に語げた。
敬虔な申生は、曲沃にある斉姜の廟で祀り、絳へゆき、献公に胙を奉呈した。
しかし、献公は狩りにでていて不在であったので、驪姫に胙を預けた。
献公は狩りから帰ると、申生を召して胙を献上させた。
その胙を地に注いで祀ると、地が盛りあがった。
つぎに、犬にあげたところ、犬は死んだ。
さらに、小臣(宦官)に与えると、斃れ死んだ。
申生は恐れをなして曲沃へ逃げ、十二月戊申(二十七日)、曲沃の廟で縊死してしまった。
申生の家臣の猛足から訃報をきかされた狐突は、
「太子――」
と、天を仰ぎ、慟哭した。
申生がなにか死ななければならないようことをしたのか。
それを想えば、狐突は悔しくてならない。
「太子のおことばです」
猛足はそういって、死ぬ間際になされたという申生の言を狐突に伝えた。
「あなたの言を聴かずに罪を受け、死ぬことになった。われが死ぬのはかまわない。
そうはいっても、君は老い、国家に難事が多い。あなたが出仕しなければ、君はどうなるのであろうか。
もしあなたが出仕して君のために働いてくれるのであれば、われは死んでもなんの後悔もない」
――太子……。
狐突は申生の遺言にしたがい、出仕するようになった。
申生の死に、驪姫は味をしめ、さらに悪計をめぐらせた。
翌年、重耳と夷吾は出奔し、諸公子はみな国外へ追放された。
改 葬
献公二十六年(紀元前六五一年)に献公が亡くなると、
重臣の里克らが驪姫や奚斉を殺し、重耳を迎え入れようとしたが、狐偃の進言もあって固辞された。
それで、秦の助けを得て夷吾を迎立した。これが、恵公である。
恵公は即位すると、里克を誅してしまった。
さすがに後ろめたさをおぼえたのか、恵公は善事を行おうとして、亡き兄申生の改葬をおもい立った。
申生は、罪人として死んだため、太子の礼式で葬られなかった。
そこで、改めて太子の礼式で葬り直そうとしたのである。
ところが、悪臭が外に漏れ出てしまった。
夏の暑い最中に改葬をおこなったからかもしれないが、国人は、
――君に大命なし。
として、こぞって恵公を批判した。
見え透いた人気取りをするのも、考えものである。
この間たれとも徒党を組まず、成り行きを傍観していた感のある狐突が、ここで奇異な体験をすることになる。
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