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中国史人物伝

費禕と諸葛恪の横死を予見した憂国の名将 張嶷(三国 蜀)(1) 蛮夷征討

蜀漢の丞相諸葛亮孔明が南征を敢行し、孟獲を心服させた。

それ以後、北伐に際して後顧の憂いがなくなった。

物語の『三国志』ではそうなっているが、実際はその後も異民族の抵抗が続発していた。

蜀漢は、西南の異民族に対処すべく、庲降都督という官職を置いた。

庲降都督就任者のひとりが馬忠であり、その属将として著しい功績をあげたのが、
張嶷(あざなは伯岐)(?-254)
である。

かれはすぐれた策略をたて、異民族征討に大功を立てた。

そして、帰服した異民族にたいして公正かつ誠実に接し、行政にも手腕を発揮した。

つねに他人の見本になるようなふるまいを心がけるなど、自分に厳しいところがあったかれは、

君上に忠節をしめし、皇帝の劉禅から一目置かれる存在であった。

そして、何よりもかれの異能を知らしめたのは、

孔明の遺志をついだ大将軍の費禕に、

あまり帰服したての者を信頼しすぎないよう忠告したことであろう。

中国史人物伝シリーズ

蜀漢 最後の砦 費禕

目次

仕 官

張嶷は、巴西郡南充国県出身であった。
貧家に生まれ、身寄りのないながら、若いころから壮大な気宇をいだき、
弱冠(二十歳)で県の功曹(人事部長)になった。
劉備が蜀を平定したさい、南充国県が山賊に襲われ、県長は家族を捐てて逃亡した。
そのとき、張嶷は白刃をかいくぐり、県長の夫人を背負って救い出した。
このことで名を顕した張嶷は、州に召し出されて、従事に任じられた。
そして、巴西郡の名士で二千石(太守)を務め、声望があった龔禄や姚伷と親交した。

山賊平定

建興五年(二二七年)、丞相の諸葛亮が北伐をおこなうため漢中に駐屯すると、
広漢・緜竹の山賊張慕らが軍需物資を略奪し、吏民を脅迫して支配下に置いた。
張嶷は都尉に任じられ、
「張慕らを討て」
と、諸葛亮から命じられた。
――きゃつらは鳥のように逃げ散るゆえ、戦って禽獲するのは難しかろう。
張嶷はそう推量し、詐って和睦を結び、期日を定めて酒宴をもよおすことにした。
宴が酣になったころ、張嶷はみずから左右を率い、
その場で張慕ら五十余人の首を斬り、賊の渠帥をみな殺しにした。
さらに、その残党を追跡し、旬日で平定した。

罹 病

のちに張嶷は重い病に罹ったが、平素より家が貧しくて治療費を工面することができなかった。そんなときに、
「広漢太守の何祗は、慈悲深い人である」
といううわさをききつけた。
張嶷はかねてより何祗とは疎遠であったが、病をおしてみずから何祗のもとへおもむき、
「病を治していただきたい」
と、たのみこんだ。
何祗はたのまれれば何が何でも成し遂げようとする性質で、私財を傾けて張嶷の治療費を捻出してくれた。
おかげで、張嶷は数年で平癒することができた。

北羌平定

建興九年(二三一年)に汶山の羌族が反乱を起こすと、
張嶷は牙門将に任じられ、三百の兵を授かり、馬忠の属将として討伐におもむいた。
張嶷は先鋒となり、数軍営の兵を率いて他里に至った。
邑は、高く険しいところにあった。
張嶷が山にはいり、四、五里(約二キロメートル)登ると、羌族が要害に石の門をつくり、その上に石を積み、
通り過ぎる者があれば石を投げおとして、打ち砕くようにしていた。
――これでは、攻めることなどできぬ。
張嶷はそう判じ、通訳を派遣して、
「なんじら汶山の諸族が謀叛をおこして善良な民に傷害をあたえたので、
天子は悪人どもを討滅せよと諸将に命じられた。
なんじらがもし服従してわが軍を通過させ、兵糧物資をさしだすのであれば、
福禄は永くさかんになり、その報いは百倍にもなろう。
もしあくまで従わないというのであれば、大軍がなんじらを誅し、雷撃がくだることになろう。
あとになってからこれを悔やんでも、どうしようもできないぞ」
と、羌族をおどした。
これをきいて、羌族の渠帥はすぐに張嶷のもとに出頭し、食糧を提供して軍を通過させた。
張嶷は軍を進め、残党の討伐にむかった。
かれらは他里がすでに降伏したときいて、恐怖してどうしたらよいかわからず、
ある者は張嶷の軍を出迎えて投降し、ある者は山谷に逃げかくれた。
そこで、張嶷は兵を放って攻撃し、敵を撃ち破った。

南夷平定

建興十一年(二三三年)に、南夷の劉冑が庲降都督の張翼の厳格な統治に反発して反旗を翻すと、
朝廷は馬忠を庲降都督に任じ、劉冑を討伐させた。
このときも、張嶷は馬忠の属将となり、戦いではいつも先鋒を務め、劉冑を斬った。
こうして南方を平定したかとおもったのもつかの間、こんどは獠種が牂牁郡と興古郡でそむいた。
馬忠から獠種の討伐を命じられた張嶷は、反乱を鎮め、捕虜二千人を漢中へ送った。
こうして、南方の四郡(建寧郡、雲南郡、牂牁郡および興古郡)の蛮夷を平らげた。
北方の羌族ならびに南方の蛮夷いずれの征討においても、張嶷がたてた計略により勝つことができたのである。

投降の真偽

延熙十四年(二五一年)、武都の氐族の王である苻健が、降伏を申しでてきた。
将軍の張尉を迎えにやったが、約束の日が過ぎても到らず、大将軍の蔣琬はたいそう気を揉んだ。
「苻健の申し出は心がこもっておりますゆえ、心変わりしたわけではございますまい。
苻健の弟は狡黠だときいておりますし、また、
夷狄のなかに帰服したくない者がいて、分裂したために遅れているのでしょう」
張嶷はそういって、蔣琬をなだめた。
数日すると、武都から報告がはいった。
はたして、苻健の弟が四百戸の部族を率いて魏にくだり、苻健だけが帰服する、という内容であった。

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