Blog ブログ

Blog

HOME//ブログ//浪人転じて人気詩人⁉ 漢代随一の文豪 司馬相如(前漢)(3) 錦を飾る

中国史人物伝

浪人転じて人気詩人⁉ 漢代随一の文豪 司馬相如(前漢)(3) 錦を飾る

司馬相如(1)はこちら≫

司馬相如(2)はこちら≫

司馬相如は吃音(どもり)であったが、著述にすぐれ、賦によって武帝を諷諫した。

かれは駆け落ちという礼に悖る野合で卓文君と夫婦になり、

その実家からの援助を受け、家財はゆたかであった。

そのため、仕官はしても、公卿になろうと望んだり、国事に関与しようとはせず、

いつも病と称して閑居し、官爵を望まなかった。

消渴(糖尿病という説がある)の持病があったからかもしれないが、

出仕がかなっても栄利を求めなかった超俗的な生き方は、道家思想によるものであろう。

そして、これこそが漢代の游士の特徴といえた。

中国史人物伝シリーズ

目次

喩巴蜀檄

建元六年(紀元前一三五年)、唐蒙が中郎将(帝の侍衛を統率する官)に任じられ、
西南にある夜郎を攻略しようとして途中にある巴蜀の吏卒千人を徴発したばかりか、
人民も数多徴発し、糧食輸送にあたるものが一万人を超えた。
このとき、唐蒙は戦時の軍法により逆賊の渠帥を誅したので、巴蜀の民はおおいに驚き恐れた。
すると、相如は武帝に召されて、
「巴蜀へゆき、唐蒙を責めてまいれ。そして、唐蒙の所業が朕の意ではないと巴蜀の民に喩告せよ」
と、命じられた。
相如は武帝の意を具現した檄文を発した。これが、『喩巴蜀檄』である。
相如は都に還り、武帝に復命した。

建 議

元光五年(紀元前一三〇年)、唐蒙は夜郎を攻略し、夜郎への道を通じた。
これを機に、さらに西南夷への道を通じようとして、巴・蜀・広漢三郡の兵卒を徴発した。
道路工事に数万人を駆りたてたものの、二年経っても完成せず、多くの士卒が死亡し、経費は億を超えた。
「こんなむだなこと、いつまでやるつもりなんじゃ」
蜀の民ばかりか大臣の公孫弘もそうたれていた。
このとき、邛や筰の君長の多くは、
「南夷が、漢と通じて数多の賞賜を得ている」
と、きき、漢への臣従を望み、
「南夷と同じようにしていただきたい」
と、願いでた。
「いかがいたそう」
という武帝からの下問に、相如は、
「邛、筰、冉、駹は蜀に近く、道もたやすく通じられます。
秦のときには通交して郡県としましたが、漢になってからやめました。
いま、もしふたたび通交して郡県を置かれるなら、南夷にまさる利益がありましょう」
と、応えた。
「その通りじゃ」
武帝は、相如の意見に満足そうに大きくうなずき、
「なんじを、中郎将に任じる。西夷を略定してまいれ」
と、命じた。

難蜀父老

――西夷に使者が遣わされる。
そうきかされて、蜀の長老の多くは、
「西夷と通交しても、何の益もない」
と、いい、公孫弘もそう考えていた。
それゆえ、相如は武帝を諫めようとおもったが、おのれが進言したことなので、なかなかいいだせずにいた。
そこで、書を著わすことにした。
その内容は、
使者である自分が、西夷との通交に反対する蜀の父老を詰難し、西夷におもむく趣旨を述べると、
父老らは恥じいってしまう、というもので、それによって武帝を諷諫し、
かつ、人民に相如の使命と武帝の真意を知らせようとした。
これが、『蜀の父老を難ず(る文)』である。

錦を飾る

元光五年(紀元前一三〇年)、相如は節(勅使のしるしの旗)を授かり、西夷に遣わされた。
王然于、壺充国、呂越人の三人が副使となり、
四乗の伝馬車を馳せ、巴蜀の吏人がととのえた幣物を西夷に贈った。
相如らが蜀に至ると、太守以下の吏人が郊外に出迎え、県令が弩の矢を背負って先導した。
その異例のもてなしをみて、蜀人は、同郷の相如を迎えることを光栄におもった。
舅の卓王孫はじめ臨邛の諸公は、みな相如に牛や酒を献じ、誼を結んだ。
「女を司馬長卿(相如のあざな)に娶わせるのが遅すぎたわい」
喟然としてそう嘆じた卓王孫は、息女に財産をふんだんに分け与え、息子と同じくらいにした。
相如は西夷を略定し、邛、筰、冉、駹、斯榆の君長たちは、みな願い出て漢の内臣になった。
そして、辺境の関所を廃してより遠くへ移し、西は沫水・若水に、南は牂牁に至るまで柵をつくって境界とし、
霊山(または霊関)の道をひらき、孫水に橋をかけ、邛や筰に通じさせた。
帰還して復命すると、武帝はおおいに悦んだ。
その後、
「司馬相如は、使者に出されたときに賄賂を受けました」
という上書があったため、相如は官を失った。
だが、一年あまりでまた召されて郎となった。

狩 猟

元狩元年(紀元前一二二年)、相如は武帝に随って長楊宮へゆき、猟りをおこなった。
このとき、みずから熊、彘、豕などを撃ち、野獣を馳逐した武帝を、相如は、
――そんな危険なことは、万乗の天子のなさることではございません。
と、上書して諫めた。これが、『上書諫猟』である。
「あいわかった」
武帝は、これを嘉納した。
その帰途、一行は宜春宮に立ち寄った。
秦の二世皇帝胡亥はここで殺され、宮の近くに葬られた。
相如は胡亥の過ちを哀しみ、賦を作って奏上した。これが、『哀秦二世賦』である。

大人の賦

相如は武帝が仙道を好むのを知り、
「上林の賦(『天子游猟の賦』の一部)など、お褒めにあずかるにはおよびません。
もっと麗しいものがございます。
臣はかつて『大人の賦』をつくりかけたことがございますが、まだ完成しておりません。
できあがりましたら、奏上させていただきたく存じます」
と、申しあげた。
――よくいわれる仙人の話は、帝王にふさわしくない。
相如はそうおもって『大人の賦』を作りあげ、武帝に奏上した。
「飄々と雲を凌ぎ、天地の間に游んでいるような気分じゃ」
武帝はそういって、おおいに悦んだ。

遺 稿

相如は、孝文園令(文帝の陵園の長官)に任じられた後、病気で致仕(引退)し、
茂陵(武帝の陵墓がある県)に引きこもった。
「司馬相如の病は重い。いまのうちに著作を残らずもらい受けてまいれ。
さもないと、のちになくなってしまうじゃろうて」
武帝はそういって、近臣の所忠を相如の家に遣わした。
しかし、所忠が至るまえに、相如はこの世を去ってしまった。
元狩七年(紀元前一一七年)のことであった。
家じゅうくまなく探したが、相如の著書はみあたらなかった。
所忠が文君にたずねたところ、
「長卿(相如)は、もとより著作など遺しておりませんでした。
ときどき書きものをいたしますと、そのたびにどなたかが持っていきますので、家には何もありません。
ただ、長卿は生前一巻の書をつくり、使者がこられ著作を求められたら、これを奉るよう申しておりました」
という応えが返ってきた。
遺稿は所忠を通じて武帝に奏上された。
――大漢は隆盛に至り、陛下は聖徳であらせられ、瑞兆もあらわれているのですから、
封禅をおこなわれるべきです。
相如の遺言ともいうべきその文は、武帝の心を打った。
武帝が泰山で封禅の礼をおこなったのは、相如の死から七年後のことであった。

SHARE
シェアする
[addtoany]

ブログ一覧