北狄から帰化し、二子を重耳に仕えさせる先見の明をみせた晋の名臣 狐突(春秋 晋)(1) 苦悶
王朝の威光が届かない化外の異民族を文化程度が低いと蔑み、
東夷
西戎
南蛮
北狄
と、よんだ。これを、華夷思想という。
その後、周が東遷して春秋時代にはいると、周王朝は衰えて諸侯を収攬する力を失った。
すると、おもしろいことに、
――天子、官を失へば、学は四夷に在り(『春秋左氏伝』昭公十七年)。
と、孔子が述べたように、
夷狄の地にありながら、中原の人を驚かせるような行蔵をしめす人があらわれた。
狐突(あざなは伯行)(?-637)
も、そのひとりであった、といえよう。
かれの名が高いのは、子の狐偃が覇者になった晋の文公重耳の片腕として活躍したから
であるが、狐偃の行蔵をみれば、その父の見識の高さをある程度窺い知ることができよう。
かれの言行もなかなかのもので、その慧眼に感服することが少なくない。
中国史人物伝シリーズ
目次
大戎の狐氏
狐突は、北狄と呼ばれる部族の一種であった大戎の狐氏の出身であった。
狐氏は周王室とおなじ姫姓で、晋の始祖唐叔虞の子孫ともいわれるが、真偽のほどはわからない。
狐突は、長ずると狄の集落をでて、近くにあった晋の分家に仕えた。
当時、晋国は宗家と分家が激しく争っていたのであるが、
宗家でなく分家に仕えたのには、かれなりの考えがあったのであろう。
ともかくも、かれには観照力と先見の明があったというしかない。
ときの当主は、武公であった。
紀元前六七九年に武公は宗家を滅ぼし、翌年、周王から晋侯に認定された。
これで安心したのか、ほどなく武公は亡くなり、献公があとを襲いだ。
太子に仕ふ
献公は父武公の妾であった斉姜に通じ、申生が生まれた。
さらに、狐突の実家である大戎の狐氏からふたりの女を娶り、
姉の狐姫が重耳(のちの文公)を、妹の小戎子が夷吾(のちの恵公)を生んだ(姫は狐氏の姓)。
狐突は同族の女が産んだ公子の誕生を喜び、ふたりの子、狐毛と狐偃を重耳に仕えさせた。
ところで、おなじ孤氏の所生である夷吾の家臣に孤氏の族人がいてもよさそうであるが、
そのような記録がないのはおもしろい。
これも孤突の判断なのであろうか。
しかも、複雑なことに、自身は太子申生に仕えていたのである。
乱時にあっては、一族の存続を図るため、複数の主に分散させて仕えたという例は枚挙に暇がない。
ただ、これは狐突の意思というよりは、
――ゆくゆくは晋の君主になる申生に狐突の薫化を受けてもらいたい。
という武公の意向でそうなったのかもしれない。
その後、晋が驪戎を伐ったさいに、驪戎の君は女を差しだしてきた。
これが驪姫である。夭いかの女は、老いた献公を籠絡しようとした。
驪姫は献公の寵愛を受け、奚斉を生んだ。
――この子を太子に――。
そんな野心をいだいたかの女は、献公の寵臣に贈賂して申生の悪口を献公の耳に吹きこませ、
申生を曲沃、重耳を蒲城、夷吾を屈へ移させた。
偏衣と金玦
献公十七年(紀元前六六〇年)十二月、
申生は、東山に居住していた皋落氏という赤狄を伐つよう献公に命じられた。
このときの申生のいでたちは奇異なもので、偏衣を着て、金玦を帯びていた。
偏衣は左右で色の違う服であり、金は冷たいもの、玦は環の一部が欠けた玉であり、親子の決絶を示している。
(玦には決断の意もある。
鴻門の会で、范増が玉玦を挙げたのは、項羽に劉邦を殺害するよう決断を促したもの。)
また、当時の金は、現在の銅である(ちなみに、現在の鉄は、当時悪金と呼ばれていた)。
――なんじは、もうわが子ではない。
という献公の悪意が十分に感じ取れる珍妙な身なりをさせられた申生を乗せた兵車を御したのが、
狐突であった。
狐突は、御しながら嘆息し、
「時は事の徴であり、衣服は身分をあらわすものであり、佩は中心を表すものである。
ゆえに慎重に事をおこなおうとするのであれば、一年のはじめ(春)に命ずるものであり、
衣服を着せるのであれば、純衣を着させ、衷心を用いるのであれば、定められた玉玦を佩びさせるべきである。
ところが、今、時の終わり(冬)に出師を命じるのは、うまくゆかないようにさせるものであるし、
雑色の服を着せるのはその身を遠ざけるものであり、金玦を佩びさせるのは太子の衷心を棄てるものである。
服は太子を遠ざけ、時はうまくいかないようにする。
雑色は涼しく、冬は殺生の時であり、金は寒く、玦は離れることである。
どうして君を恃みにできようか。いくら勉めても、狄を全滅させることができようか」
と、悲観的に洞察した。
狄を全滅させることができない、と最後にいったのは、
狐突が狄の出身であるため、出征にたいし、人一倍否定的なのかもしれない。
――この遠征を機に、太子をお連れして、他国へ亡命しよう。
狐突は、そう考えていた。
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