マイナーとは言わせない⁉ 曹魏西方の守護神 張既(三国 魏)(2) 国の良臣
張既は雍州と涼州を長く治め、西方を安定させた。
かれの功績は、それだけではなかった。
胡遵、游楚、楊阜ら次世代の能者を推挙してひき立てた。
張既の死後、かれらはみな難しい要地をしっかりと押さえ、そろって地位と名声を得た。
曹魏が外敵に滅ぼされたわけではないことをおもえば、
――張既は死後においても曹魏を守り抜いた。
といっても、過言ではなかろう。
中国史人物伝シリーズ
目次
涼州の擾乱
建安十八年(二一三年)に涼州と雍州が統合して以降、三輔から西域までの地はみな雍州に属していた。
曹丕が魏王朝を開くと、涼州が設置され、安定太守鄒岐が刺史となった。
ところが、張掖の張進が郡守杜通を捕らえて挙兵して鄒岐の赴任を拒むと、
酒泉の黄華や西平の麴演も太守を追放して挙兵し、張進に呼応した。
張既は、護羌校尉蘇則に加勢すると称して兵を進め、叛徒に圧力をかけた。
蘇則が反乱を平定すると、張既は都郷侯に昇進した。
盧水胡の乱
涼州刺史
黄初二年(二二一年)、涼州の盧水の胡(異民族)である伊健妓妾、治元多らが反乱を起こすと、
河西は大いに擾れた。
文帝(曹丕)はこれを憂え、
「張既でなければ、涼州を鎮められまい」
と、いい、
「むかし、賈復(後漢の功臣)が郾の賊を討伐したいと願いでたところ、
光武帝は、執金吾(賈復)が郾を伐つのなら私は何を憂えることがあろう、と笑いながらいわれた。
卿の謀略は人にすぐれており、いまこそそれを活かすときである。
処置は適宜におこなえばよい。事前にうかがいをたてる必要などないぞ」
と、詔命を発して、鄒岐を召し還し、張既を涼州刺史に任じた。
さらに、護軍の夏侯儒や将軍の費曜らを張既の後詰めにつけた。
武威攻略
武威にいる賊を討伐することになった張既は、金城まで至ってから渡河しようと考えたが、諸将や太守たちは、
「兵は少なく道は険阻です。深入りすべきではありません」
と、こぞって異見を述べた。しかし、張既は、
「道は険阻ではあるが、井陘のような隘路ではなく、夷狄は烏合の集にすぎず、李左車のような計もない。
いま、武威は危急にあるゆえ、できるだけ速くゆかねばならぬのだ」
と、いい、黄河を渡った。賊軍七千余騎が鸇陰口で邀撃の陣を布いた。
「鸇陰を通る」
張既はそう喧伝してしておいて、ひそかに且次を通って武威に至った。
「神わざじゃ」
異民族らはそうおもいこみ、顕美へ撤退した。
張既がすでに武威をおさえてからようやく費曜が至り、夏侯儒らにいたってはまだ到達しなかった。
疲労と勢い
張既は将士をねぎらって賞賜をあたえ、軍を進めて賊軍を撃とうとした。
「士卒は疲れきって居り、敵は衆くて意気さかんです。雌雄を決するのは難しいとおもわれます」
諸将は、みなそういって諫めた。しかし、張既は、
「いま、わが軍には兵糧がない。敵の兵糧を利用するほかあるまい。
もし敵がわが兵が合わさるのをみて、撤退して深山にたてこもってしまえば、
これを追うと道が険しく餓えに窮してしまい、兵を還そうにも斥候を出されて略奪されよう。
そうなれば、兵を休ませるわけにいかぬ。一日敵を縱てば、患いは数世に在り、というものだ」
と、ききいれず、顕美へ進軍した。
鎮 圧
そのころ、
「敵の騎兵数千が大風を利用して火を放ち、軍営を焼こうとしている」
といううわさが軍中に出まわり、将士はみな恐れた。
張既は夜間に精兵三千人を伏せておき、参軍の成公英に、
「なんじに千余騎を授ける。敵に戦いを挑み、わざと負けて逃げよ」
と、命じた。
成公英がその通りにしたところ、はたして賊軍が争うように成公英を追いかけた。
「かかれっ」
という張既の合図で、伏兵が発って賊軍の背後を断ち、はさみうちにして大破した。
斬首および生け獲りにした敵兵は、万を超えた。
文帝はたいそう悦び、
「卿は黄河を踰え険阻な地を通り、疲労した兵で敵の精鋭を撃ち、寡兵で大軍に勝った。
その功は南仲(西周時代に北方西方の民族を征伐した将軍)より大きく、
労苦は尹吉甫(西周の宣王のときに北方民族を征伐した将軍)を踰えた。
この勲功はただ胡を破っただけにとどまらぬ。
河右は永く安寧し、われらは西方を顧慮しなくてよくなったのだ」
と、詔した。
張既は西郷侯に移封されて二百戸を加増され、従前とあわせて四百戸となった。
蘇衡の乱
酒泉の蘇衡が反乱を起こし、羌の巨帥である鄰戴および丁零の胡一万余騎とともに辺境にある県を侵攻した。
張既は夏侯儒とともにこれを撃破し、蘇衡および鄰戴らはみな降伏した。
さらに、張既は上疏して、
「夏侯儒とともに左城を修繕し、鄣塞(とりで)を築き、
烽候(のろしをあげる物見櫓)や邸閣(倉庫)を置いて、胡に備えたく存じます」
と、願いでた。
西羌は恐れ、二万余人の部落を率いて降伏した。
麴光の乱
その後、西平の麴光らが郡守を殺した。
「麴光らを撃ちましょう」
諸将は口ぐちにそういったが、張既は、
「ただ麴光らが反乱を起こしただけで、郡の人がみな同調したわけではない。
もしただちに軍を出せば、吏民や羌胡は国家が是非を区別しないとおもい、
あらためてみなを団結させてしまうことになろう。それだと虎に翼をつけるようなもんじゃ。
麴光らは羌胡をたのみにしようとしている。
いま先手をうって羌胡に麴光を襲撃させ、手厚く贈賄し、捕獲したものはみなあたえる。
そうすれば外はその勢いをそぎ、内はその交わりをひき離し、戦わずして落ち着くこと必定じゃ」
と、いい、
「麴光らにだまされた者をゆるし、賊帥を斬って首を送ってきた者には封賞をあたえよう」
と、記した檄文を発して羌族たちを説得した。
その結果、麴光らの一味が麴光の首を斬り、送ってよこしてきた。
国の良臣
張既は雍州と涼州を十余年治め、高い評判を得て、黄初四年(二二三年)に亡くなった。
訃報に接し、文帝は詔を発し、
「もとの涼州刺史張既は、よく人民を受けいれて養い、異民族らを土地に落ち着かせた。
国の良臣といってよかろう」
と、賛辞を惜しまなかった。
明帝(曹叡)が即位すると、張既に粛侯と追諡した。
張既が辟招した扶風の龐延、天水の楊阜、安定の胡遵、酒泉の龐淯、敦煌の張恭および周生烈らは、
そろって地位と名声を得た。
「粛」という諡号は、強い志で功を成し遂げた、と解されるが、
生前の功績だけでなく、このあたりも加味した評価であったろう。
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