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中国史人物伝

天下にかけた渠 関中に長大な灌漑水路を完成させ、秦に富強をもたらした韓の水工 鄭国(戦国時代)

中国では、遅くても商(殷)の時代以降、

農業が牧畜に代わって主産業になっていたといわれる。

春秋時代以降に鉄の生産が増大すると、農業生産も拡大した。

鉄器の普及はまた、大規模な治水工事も可能にした。

治水工事は春秋時代からおこなわれており、

戦国時代になると、富国強兵の政策のもと、

鉄器の普及や土木技術の発達もあいまって、積極的に実施された。

『史記』河渠書には、戦国時代におこなわれた治水工事として、
史起(魏の鄴の県令)
李冰(蜀の太守)
鄭国(韓の水工)
の事績を挙げている。特に、

鄭国渠

と、呼ばれる渠(水路)を完成させた鄭国の事業は、

秦の本拠地である関中を肥沃にし、秦に天下統一をもたらした。

中国史人物伝シリーズ

目次

治 水

鄭国は、韓の国の水工(水利家)として、河水(黄河)の治水工事にたずさわっていた。
中原諸国は、古昔からこの川の決壊に悩まされていた。
河水の治水で実績のある人物といえば、伝説の聖天子禹王が有名であるが、
鄭国からすれば、数十年前に近隣で治水工事をおこなったとされる洛陽の豪商白圭のほうがなじみ深い。
かれは、白圭がおこなった治水の保守や修繕にもたずさわっていた。
――人びとの不安を取り除きたい。
白圭はそうおもって治水工事をおこなったのではあるまいか。
そして鄭国も、おなじおもいで治水に取り組んでいた。

紀元前三世紀にはいると、韓は隣国の秦からしきりに攻められて、領地を削損していった。
鄭国は韓の大臣に召しだされ、
「秦をなんとか疲弊させて、わが国への侵攻をやめさせたい。秦は、事業を興すのを好むときく。
そこで、わが国のために、秦で治水事業をおこなってもらえまいか」
と、打診をうけた。これに対し、鄭国は、
「どんな事業をすればよいか決めたいので、調べさせてください」
と、申しでて、許された。

視 察

鄭国は韓をでて、諸国の治水工事を見学してまわった。
魏では鄴の県令であった史起がおこなった灌漑工事を、
楚では荘王のときの宰相孫叔敖が造った芍陂を、
そして、秦では、蜀の郡守李冰父子が造った都江堰をみてまわりながら、
――水は、生きとし生けるものを生かしもし、殺しもする。
と、いたく感じた鄭国は、
――かれらの成功は、その上にある。
と、肝に銘じた。
秦の本拠地である関中を流れる渭水の北側に、荒れ地が広がっていた。
――これを、何とかできないか。
鄭国は帰国すると、韓の大臣に復命し、
「事業は決まりました。秦へまいります」
と、告げた。
「工事の間は、秦はわが国を攻める余裕などなくなろう。たのんだぞ」
という大臣のことばに背中を押され、鄭国は秦の都咸陽へむかった。

呂不韋

秦の宰相呂不韋は、韓の陽翟の出身であるときく。
――秦の利を示せば、何とかなるのではないか。
鄭国はそうおもいつつ、呂不韋に拝謁を願いでた。
「韓の水工が、われになにをご教示くださるのか」
呂不韋が大国の宰相ながら物腰低く接してきたのには、鄭国も驚かされた。
「渭水の北を、肥沃の地に変えてごらんにみせます」
鄭国がそう返すと、こんどは呂不韋が驚かされた。
「ほう、どうやって」
「涇水を鑿って中山の西から瓠口まで渠(水路)をつくり、北山にそい、東のかた洛水に注ぎます」
「ふむ、おもしろい。やってみなはれ」
呂不韋の許しを得て、鄭国は灌漑工事に着手することになった。

着 手

鄭国は涇水を堰き止めて渠に流れこませる工事に着手した。
だが、涇水は物資輸送に使われており、川の流れを完全に止めるわけにはいかない。
そこで、鄭国は涇水の水路を二つにわけて、水量の調整をはかることにした。
この作業には、李冰の仕事をおおいに参考にした。
まず、涇水の中流に位置する瓠口の付近に堤を築いた。
そして、川の中央に方四、五尺(約一立方メートル)の大石を投じ、
鉄で隙間をふさぎながら陵のように石を積みあげて、流れを分断し、水量を調整した。
その一方で、瓠口から渭水に並行するように東へ三百余里(約百二十キロメートル)にわたる水路を造った。
工事は、十年におよんだ。
――もう少しで、完成じゃ。
というところで、鄭国のもとに捕吏がきて、
「おまえを逮捕する」
と、いわれ、捕縛された。

罪と功

――ばれたか。
鄭国は咸陽まで連行され、呂不韋のまえに引き据えられ、
「韓の間諜とわかったからには、死んでもらうしかない」
と、宣告されたが、
――生きて渠の完成をみたい。
という一心から、
「はじめ臣は間諜でしたが、渠が完成すれば、秦の利になります。
臣は韓のために数年の命をのばしましたが、秦のために万世の功を建てました」
と、弁明した。すると、呂不韋は、
「たしかにその通りじゃ。よかろう。工事を完成させよ」
と、いい、鄭国を赦した。
呂不韋が鄭国に対して一貫して好意的な態度をみせたのは、同郷の誼によるものだけなのであったろうか。
ともかくも、鄭国はふたたび工事現場に戻ることができた。

鄭国渠

黄土高原を北西から南西へ横切って流れる涇水の水は、黄色く濁っている。
鄭国が濁水を見ながら、
「よし、流すぞ」
と、工人たちに合図した。
工人たちが鉄の棒を梃子のように使って涇水を堰き止めていた石を動かすと、
涇水の濁水が渠に流れこんでいった。
「わあっ」
鄭国らは、こぞって歓声をあげた。
渠に流れこんだ水は、穢鹵の地(やせ地)四万余頃(約七・二万ヘクタール)に灌漑し、
渭水北岸の土壌が改良され、地味を肥やした。
その結果、収穫は一畝(約四・六アール)あたり一鍾(約五十リットル)をあげるまでになったという。
こうして関中は沃野となり、凶年がなく、秦はさらに富強となり、
紀元前二三〇年に韓を滅ぼしたのを皮切りに諸国をつぎつぎにほろぼし、
紀元前二二一年に天下を統一するにいたった。
鄭国が造った渠は、
「鄭国渠」
と、名づけられた。
この水路は歴代王朝により改修されながら、
「涇恵渠」
として現在なお使われている。

渠を完成させたあと、鄭国の消息については、史書に記載がない。
秦に富強をもたらした功労者として厚く遇されたのであろうか。それとも……

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