白公の乱を治めた君子は龍がお好き⁉ 沈諸梁(葉公子高)(春秋 楚)(3) 白公の乱
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葉公は『論語』に二度登場し、特に直躬の話が有名である。
「うちの領民に、正直で評判の躬という者がおってのう」
葉公が、孔子にそう話しかけた。
「ほう」
「父が羊を盗んだと申しでてきよったんじゃ」
葉公が得意げにそういうと、孔子は首を横にふり、
「うちの正直者は、違います」
と、いった。
「どう違うんじゃ」
葉公が怪訝におもって訊くと、孔子は、
「父は子の悪事を隠し、子は父の悪事を隠します」
と、応じ、さらに、
――直きこと、その中にあり(『論語』子路)。
と、つづけ、葉公を論破した。
実務家と学者のディベートを想起させられる問答である。
このように、儒家の書物において、葉公は総じて小人にされている感がある。
孔子と同時代で名声が高かった葉公を小人とすることで、
孔子ひいては儒家の権威づけをはかったのかもしれない。
中国史人物伝シリーズ
目次
野 心
「子西を、殺さん」
そう息巻く白公のただならぬ気配を危惧し、
「王孫勝が、卿のおいのちを狙っておりますぞ」
と、子西に忠告した人がいた。しかし、子西は、
「勝は卵のようなもの。われが翼け育ててやったんじゃ。
われが死ねば、勝をおいて、いったいたれが令尹や司馬になるというんじゃ」
と、返し、笑って忠告をきき流した。
子西は、他人の意見をきき棄てにするような宰相ではない。
しかし、かれにはこれまでの治績で成功した自信がある。その自信が、
――おのれを迎えいれ、高位につけてくれたわれに恩を感じこそすれ、怨みなんかいだこうものか。
と、かれにおもいこませてしまっている。
たしかに、白公が栄達を求めているのであれば、
子西を除かなくても、子西が死ぬのを待っていれば、年功序列で自然と転がりこんでこよう。
白公が権力に執着する人物であれば、その通りかもしれない。
ところが、白公が欲していたのは権力ではなく、報復のみであった。
おのれがかけた恩にとらわれて近親の情に流されてしまい、
白公の本心を看抜けなかったのが、子西の生命取りになった。
白公の乱
凶 行
恵王十年(紀元前四七九年)、白公は楚の領内に侵攻してきた呉軍を返り討ちにすると、
「捕虜と戦利品を献上いたしたい」
と、朝廷に願いでて、聴許された。
――時、来れり。
白公は喜び勇んで七月に朝廷に出仕し、子西と子期を襲った。
――諸梁(葉公)が申した通りであったか。
と、恥じた子西は、袂で顔をかくして死んだ。
膂力のある子期は豫章(くすのき)を抜き、白公の手勢に撃ちかかったが、力尽きて殺された。
白公はさらに恵王を脅迫し、みずから取って替わった。
かねてから葉公がいだいていた懸念が中ってしまった。
出 兵
葉公は蔡で凶報に接し、天を仰ぎ、
「わが言を聴きいれてもらえなかったことは怨むが、あの方には楚をよくお治めになられた恩徳がある。
楚国が安定し、先王の業を復すことができたのは、あの方のおかげじゃ。
小怨で大徳を棄てるのは不義じゃ。仇を伐たねばならぬ」
と、いった。その決意を受け、
「都へまいりましょう」
と、人びとが口ぐちに進言してきても、葉公は冷静さを崩さず、
「危うい方法で僥倖を求める者は、欲望に際限がない、という。
利をむさぼるだけなら、きっと味方が離れてゆこう」
と、血気にはやるかれらを制するように諭し、機会を待った。
やがて、白公が賢大夫の管脩(管仲の子孫)を殺したときくや、
「これで、恐れるものはない」
と、いい、兵を挙げ、郢都をめざし進軍した。
冑
葉公が都の北門に至ると、そこで出くわした人から、
「なにゆえ冑をおつけになられないのですか。
国人はまるで父母を待つようなおもいで君をお待ち申しあげております。
もし盗賊の矢が君を傷つけでもしましたら、民の望みが絶たれてしまいますぞ――」
と、諫められた。
「さようであるな」
葉公はそう応じ、冑をつけて進軍した。すると、また別の人から、
「なにゆえ冑をおつけになられておられるのですか。
国人はまるで秋の実りを待つようなおもいで君をお待ち申しあげております。
もしご尊顔を拝することができましたら、安心するでありましょう。
生命びろいしたとわかれば、みな奮い立って国のために身を投げだしましょう。
それなのに、お顔をかくして民の望みを絶ってしまうのは、よろしくないのではございますまいか」
と、諫められた。葉公は、
「さようか」
と、応じ、こんどは冑を脱いで進軍した。
鎮 定
葉公は王宮へむかう途中、箴尹固が白公に味方しようと手兵を率いてやってきたところにでくわした。
――きゃつをゆかせてはならん。
葉公は箴尹固を翻意させようとして、
「あのふたりがおらなんだら、楚は滅んでおったぞ。恩を棄てて賊に従えば、身を保てまい」
と、説得し、味方につけると、
「国人とともに賊を討て」
と、命じた。
追いつめられた白公は都城を脱けだして山に逃げ込み、縊死した。
葉公は令尹と司馬を兼ね、動揺の鎮まらない国内の安定につとめた。
翌年、葉公は国情が安定したのをみて、
令尹を子西の子である王孫寧に、司馬を子期の子である王孫寛にそれぞれ譲り、葉で隠居した。
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