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中国史人物伝

マイナーなんて言わせない⁉ 曹魏西方の守護神 張既(三国 魏)(1) 方伯の器

228年、蜀漢の丞相(首相)諸葛亮孔明が北伐の兵を起こし、

隴右(隴山の西側の地域)を侵攻すると、

天水郡や南安郡の太守が持ち場を放棄し、二郡の西にある隴西郡は孤立してしまった。

しかし、太守の游楚は隴西にとどまって蜀軍に抵抗した。

のちに張郃の援軍が到来し、街亭で馬謖軍を撃破し、蜀軍を去らせた。

その結果、游楚は見事に防ぎ切ることができた。

游楚を曹操に推挙したのが、

張既(あざなは徳容)(?-223)

である。その名をきいて、

「ああ、あの人物か」

と、即座に反応できる人はどれだけいようか?

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目次

方伯の器

張既は馮翊郡高陵県の出身で、容貌にすぐれ、若くして書疏に巧みであった。
まだ子どもであったころ、郡の功曹(人事部長)であった游殷から、
「わが家へきなさい」
と、家に招かれた。
游殷は先に帰り、家人に賓客に出す食事を用意させた。
張既がくると、游殷の妻は哄笑し、
「あなたはどうかなされておいでですわ。張徳容さんは童昬な小児、どこが特別なお客さんなのよ」
と、游殷をなじった。
「怪しむなかれ。方伯(長官)の器なんじゃぞ」
と、真顔で返した游殷は、張既と霸王の道について論じあい、饗宴が終わると子の游楚を引きあわせ、
「この子のことを、お頼み申す」
と、頭をさげた。張既は遠慮して受けなかったが、
「たってお願い申す」
と、游殷からせがまれた。
張既は名望の高い游殷の頼みをことわりにくくなり、ついに、
「わかりました」
と、応じてしまった。
游楚は長じてから張既の推挙で太守となり、太和年間(二二七年~二三三年)には、
諸葛亮の侵攻に抗戦し、防ぎきった。

辟 召

張既は十六歳で郡の小吏(小役人)となり、家は豊かになったものの、
名家の出ではなかったため、昇進の望みが薄かった。
そこでつねに上等な刀と筆と版木を用意し、それらをもっていない大吏(上級役人)をみつければ手渡した。
こうして官衙で識られるようになったかれは昇進を重ね、孝廉に推挙されたものの、応じなかった。
(当時は政情が不安定であったため、用心して出仕を控えたのかもしれない。)
曹操が司空(副首相)になると辟召され、都に至るまえに茂才にあげられ、新豊の令に任じられた。
治績は、三輔の首席であった。

馬騰を説く

建安七年(二〇二年)、黎陽で曹操と戦った袁尚は、みずから河東太守に任じた郭援、幷州刺史の高幹および
匈奴の呼廚泉単于に平陽を攻め取らせる一方、西方へ使者を遣り、馬騰ら関中の諸将と合従しようとした。
張既は、曹操から関中のことを任されていた司隸校尉(警視総監)の鍾繇に、馬騰を説くよう命じられた。
張既が利害を説くと、馬騰らはそれに従った。
馬騰は子の馬超に一万余の兵をつけ、鍾繇と合流して高幹らを大いに撃ち破り、
郭援の首を斬り、高幹と呼廚泉単于らはみな降伏した。
このときは所領を安堵された高幹であるが、建安十年(二〇五年)、曹操が烏桓討伐におもむいた隙に、
幷州を挙げてふたたびそむいた。
河東の衛固と弘農の張琰がこれに呼応し、さらに河内の張晟が一万余の兵を率いて崤・澠のあたりを寇掠した。
曹操は張既を議郎に任じて、鍾繇の参軍事とし西方へおもむき、馬騰らの将軍をよびよせるよう命じられた。
すると、馬騰らはみな兵を引きつれて集まって張晟らを撃ち破り、張琰と衛固の首を斬り、
高幹は荊州の劉表を頼ろうと逃げる途中で殺された。
この功により、張既は武始亭侯に封じられた。

錦を飾る

建安十三年(二〇八年)、曹操は荊州を征伐しようと考えた。
しかし、関中に割拠していた馬騰らに隙を衝かれるのではないかと憂えた。
そこで、張既はふたたび曹操の命で西方へおもむき、
「軍を解散して、帰郷なさいますよう」
と、馬騰らを説いた。
「おっしゃる通りにいたしましょう」
馬騰はそう応じてくれたものの、いっこうに軍を解散するけはいをみせなかった。
張既は変事を恐れ、諸県に食糧をたくわえるよう促す一方、二千石(郡守)に郊外まで迎えさせた。
そのため、馬騰はやむなく子の馬超に軍勢を預け、入朝した。
曹操は上表して馬騰を衛尉(宮中警備長官)とし、馬超を将軍とした。
建安十六年(二一一年)に馬超がそむく(潼関の戦い)と、張既は曹操に従って華陰で馬超を破り、
西のかた関右(潼関以西の地)を平定した。
この功により、張既は京兆尹(都知事)に任じられた。
かれは流民を招懐し、県邑を復興した。
その結果、百姓はかれに懐くようになった。
翌年、魏国が建てられると、張既は尚書となり、ついで雍州刺史になった。
張既が曹操のもとへ赴任のあいさつに訪れると、
「君を本州(故郷の州)に還すのは、繡のある衣服を着て昼行するようなもんじゃ」
と、声をかけられた。

漢中征討

建安十九年(二一四年)に、枹罕の宋建を討伐した際、張既は夏侯淵の別軍として臨洮・狄道を攻め、
これを平定した。
翌年、張魯征伐に従い、別軍として散関から攻めいって張魯に味方した氐族を討ち、
麦を刈りとって兵糧にあてがった。
張魯が降ると、張既は、
「漢中の民数万戸を、長安と三輔にお移しあそばされませ」
と、曹操に進言した。

植 民

建安二十三年(二一八年)、曹洪とともに下弁で蜀の将軍呉蘭を撃ち破った。
このとき、曹操は隴西・天水・南安の民を河北に移していたため、
三郡の民は恐れて動揺し、不安になって落ち着かなかった。
張既は三郡出身の将兵や官吏に休暇をあたえ、家屋を修理させ、水碓(水力を利用したうす)を作らせた。
その結果、民心は安定した。そんなとき、
「漢中から撤退しようとおもうんじゃが」
と、曹操から諮われた。
漢中の守備を放棄すれば、劉備が北進して武都の氐族を味方にし、関中に逼る懸念がある。
それにどう対処すべきか。
「氐族に北方の穀倉地帯へ移るように勧め、賊を避けさせるのがようございます。
さきに至った者を厚く賞すれば、ほかの者も早い者勝ちとばかりにつぎつぎに移動いたしましょう」
張既がそう応えると、曹操はその意見をいれ、みずから漢中へおもむいて諸軍を撤退させた。
このとき、張既は曹操の命で武都へゆき、氐族の五万余人の部落を扶風や天水の郡界へ移住させた。

二虎競食

この当時、武威の顔俊、張掖の和鸞、酒泉の黄華、西平の麴演らは、いずれも郡をあげて反乱を起こし、
みずから将軍と号し、たがいに攻撃しあった。
顔俊は母と子を曹操のもとに人質にだして、助けを求めてきた。
「いかがいたそう」
曹操からそう諮われ、
「顔俊らは外にむけてはわが国の威を借りておきながら、内は傲慢でふたごころをいだいており、
計画がうまくゆけば勢いにのってそむきましょう。
いまは蜀の平定にかまけておりますゆえ、両存して闘わせるのがようございます。
卞荘子が二匹の虎が闘っているのを傍観し、共倒れするのを待ったようになさいませ」
と、張既が進言したところ、曹操は、
「なるほど」
と、手を拍った。
一年あまりして、顔俊は和鸞に殺され、和鸞が武威の王秘に殺された。

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