名将にして名相 商鞅に影響を与えた『呉子』の主人公 呉起(戦国 魏・楚)(3) 変法
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呉起は用兵を好み、戦国時代初期の名君であった魏の文侯から高く評価された。
しかし、文侯のあとを襲いだ武侯や輔弼の重臣たちとは折り合いが悪く、
能力や実績では随一と自認する矜持の高さも相まって魏を去らざるを得なくなった。
中国史人物伝シリーズ
目次
西河を望む
呉起が魏を去った経緯については、『呂氏春秋』(仲冬紀 長見)につぎのような話がある。
呉起は西河の外(黄河の西側の地)を治めていたが、
進言が武侯に聴き容れられないばかりか、王錯に讒言されて、徴召命令を受けてしまった。
都へ還る途中、岸門に至ったところで車を止めさせた呉起は、西河を望んで涙を滂沱と流した。
「おもうに、公は躧(サンダルやスリッパのような履きもの)を脱ぐように天下をお捨てになられるように
おみうけいたします。それなのに、いま、西河を去って泣いておられるのは、なにゆえなんですか」
僕人からそうたずねられ、呉起は涙を拭きながら、
「君がわれを知ってくださり、存分にはたらかさせてもらえれば、西河をおさえて王になれたであろう。
だが、君は讒言をお容れになり、われをわかっていただけない。もうじき西河は秦に取られよう。
それから魏は削られよう」
と、返した。
それから、呉起は魏を去った。
楚の令尹
――中原では、受けいれてもらえまい。
そうおもった呉起がむかったのは、南方の大国 楚である。
楚は、中原の諸侯が尊崇する周王朝を否定していた。
そこに、おのれの反骨心と共鳴するものを感じたからであろうか。
呉起が楚へはいったのは、紀元前三九〇年であった。
「あの呉起が、きたのか」
楚の悼王はこの異邦人の到来を喜び、令尹(首相)の席を与えてくれた。
「な、なんと――」
呉起は、通身がしびれるおもいがした。
楚は古昔以来の政体をいまなお保持しつづける神聖王朝であり、
令尹の席には王族しかつけないといってよく、異邦人で令尹になれたのは彭仲爽しかいない。
それを想えば、望外の厚遇といえよう。
意気に感じた呉起は、悼王の期待に応えようと大胆な改革を断行した。
すなわち、法令を明らかにして、不急の官を棄捐し、
疎遠な王族への特別待遇をやめるなどしてしぼりだした予算で、戦士を養った。
既得権益に切り込み、世襲を排除し、法制を整えて強兵につとめ、新しい国家の制度を創ろうとしたのである。
そして、南は越を征討し、北は三晋(魏・韓・趙)を退け、西は秦を伐つなど
周辺に兵を出して楚国の版図を拡げ、国威の発揚につとめた。
悼王の絶大な信頼を背に呉起は改革を推し進め、十年ほどで一定の成果をあげた。
最後の計
呉起の変法は、性急であったかもしれない。
それでも、これが定着すれば、楚は他の雄国が手をつけられぬほど富強になれたであろう。
ところが、呉起の改革を一貫して支持し、国政を委ねつづけていた悼王が、紀元前三八一年に亡くなった。
これを引き金に、呉起の改革で不利益を被っていた王族らが兵を挙げ、
「君側の奸を除かん――」
と、号して呉起を攻めた。
呉起は逃げたものの、なすすべがなかった。
――もはや、これまでか――。
おのれの死を悟っても、かれは冷静であった。
――たしか、国法では……。
呉起は胸裡でそうつぶやきながら王宮へ逃げこみ、悼王の屍体に覆い被さった。
「射よ――」
追っ手が放った矢が、呉起の軀体を貫いた。
「君側の奸を除いたぞ――」
歓声が、王宮をつつみこんだ。
報 復
呉起を除いた王族らは、新王の御世にわが世を謳歌することができなかった。
じつは、呉起を射抜いた矢の先が、悼王の屍体にまで達していた。
楚の国法では、王の屍体を害したものは族殺される決まりであった。
太子(粛王)が即位すると、国法に照らし、呉起を射殺した者どもを残らず処刑した。
その数は、なんと七十余家にのぼった。
死してなおおのれを殺した者へ報復してみせたのであるから、呉起は最期まで気骨の士であった。
補 遺
粛王は呉起を殺した者たちを誅殺したが、呉起の変法は破棄し、旧法に戻してしまった。
粛王も、王族らと同じく、呉起の変法を窮屈に感じていたのかもしれない。
その結果、楚は改革の果実を保持できなかった。
――呉起の政治は、酷薄で恩情が少なく、わが身を滅ぼした。
司馬遷は、『史記』にそう記した。
情の通わない政治は実を結ばない、というべきか。
おなじ衛人の商鞅(公孫鞅)商鞅が秦で変法を実施したのは、呉起の死から二十数年が経ってからであった。
商鞅の変法には、呉起の改革に影響されたところが多かったという。
秦の伸張を防ごうと腐心した呉起の意思を受けついだのは、皮肉にも秦であったのかもしれない。
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