民に陰徳を施し、二柄を独占した田斉の祖 田恒(田常・陳恒)(田成子)(春秋 斉)
かれの子孫は、斉では陳氏あるいは陳と音が通じた田を用いて田氏とよばれた。
完の玄孫田無宇は斉の霊公に気に入られ、公女を降嫁された。
妻の同母弟の景公が君主になると、田無宇は信頼された。
田無宇の子田乞は、民から米麦を課税するさいには小さな斗(ます)を用い、
民に米麦を配給するさいには大きな斗を用いた。
それゆえ、人民から慕われた。
管仲とならんで斉の名宰相とされる晏嬰はこれを憂慮し、
紀元前五三九年に晋を訪問したときに、
「斉は、いずれ田氏のものになりましょう」
と、晋の平公の師であった叔向に私語した。
景公の死後、田乞は悼公を擁立し、宰相に任じられた。
そして、田乞の子
田恒(田常・陳恒)(田成子)(注)
が、斉における田氏の主権を不動のものにした。
注:生前は田恒あるいは陳恒と称されたが、諱が前漢の文帝と同じであったため、
『史記』には「田常」と記される(忌諱)。成は、謚。
中国史人物伝シリーズ
孔子に「古の遺直」と評された 叔向
景公を擁立した宰相 崔杼
成の謚法
目次
陰 徳
晏嬰の死後、田氏は晏氏や鮑氏(鮑叔牙の子孫)ならびに有力な公族と権勢を競っていた。
悼公四年(紀元前四八五年)、田乞が亡くなり、田恒が家督を襲いだ。
そのころ、呉王夫差が覇者にならんと中原に進出していた。
悼公は隣国の魯を攻めるため、呉に援軍を要請しておきながら、魯と和睦すると援軍要請を撤回した。
そのため、かえって呉に攻められてしまった。
そこで、斉人は悼公を弑し、呉に弁解した。そして、悼公の子の壬を立てた。これが簡公である。
簡公は即位すると、寵臣の闞止(監止)に政治をまかせた。
田恒は、闞止と折り合いが悪かった。
それゆえ、闞止を憚り、朝廷に出仕すると闞止のほうを何度も振りむいた。
このようなときに、君上をみずに下民のほうをむいたのであるから、田恒は凡庸な大夫ではなかった。
田恒は父田乞にならい、民から米麦を課税するさいには小さな斗(ます)を用い、
民に米麦を配給するさいには大きな斗を用いた。人民は喜び、
――嫗や芑を採る、田子に帰す(老女らよ、菜を採って田子のところへもってゆきなさい)。
と、歌った。
政 変
一族の絆
逆境に陥ってしまったときには、凶いことが重なるものである。
一族の田逆が朝廷で人を殺し、闞止に捕らえられてしまった。
「きゃつは病ゆえ」
田恒はそう弁解して、田逆に潘沐(髪を洗う米のとぎ汁) や酒肉をさしいれようとした。
その際に、看守にごちそうをふるまい、酔わせてから殺し、田逆を逃がした。
闞止は後難を恐れ、田氏と盟った。
ほどなく、闞止に仕えていた一族の田豹から、
「田氏をみな追いだしてなんじを立てたいとおもうんじゃが、と打診されました」
と、告げられた。
「あっちには君がついております。先手を取らないと、きっと禍にかかりましょう」
田逆からそうせかされて、田恒は肚を決めた。
狐 疑
簡公四年(紀元前四八一年)五月壬申(十三日) 、田恒は七人の兄弟ともに四乗の車に分乗して公宮へむかった。
「なにごとか――」
と、叫びながら、闞止が公宮のなかからあらわれた。
田恒らはそれを無視して公宮のなかにはいると、門を閉じて闞止を閉めだした。
「よしっ、つぎは、君を路寝(正殿)へお遷ししよう」
このとき、簡公は檀台で婦人たちと酒を飲んでいた。
「君が、討手をさしむけようとなされております」
そうきかされて、田恒はあわてて公宮の外へ出て、倉庫で様子をうかがった。
「君は、まだお怒りです」
そうきかされて、田恒は誅されるのを恐れ、
「どこへゆこうが仕える君がいないところなどない」
と、いい、出奔しようとした。すると、田逆が剣を抜いて、
「需は、事の賊なり」
と、田恒をなじった。
――ためらえば仕損じますぞ。
そう諫めた田逆は、
「陳氏(田氏)の宗主になれる者などいくらでもおる。あなたを殺さずにおけば、祖霊から罰を受けよう」
と、田恒を威しつけた。
それで、田恒はおもいとどまった。
弑 殺
田氏の兵が、公宮をおさえた。
そこへ、闞止が徒党を集めて公宮の大門(正門)を攻めてきた。
しかし、田氏の兵が必死に防戦したため、勝てずに逃げだした。
「追え――」
田氏の兵が、敗走する闞止らを追った。
闞止は逃げる途中で道に迷い、田氏の領邑である豊丘で捕まった。
田氏は、闞止を臨淄の郭関(外城の門)で処刑した。
孤立した簡公を、どうするか。
――国君になれる者などいくらでもおる。
田逆ならそういいかねん、と胸裡で笑った田恒は肚を決めた。
五月庚辰(二十一日)、田恒は簡公を捕らえて舒州に幽閉した。
「君が復位すれば、報復されよう」
田恒はそう恐れ、六月甲午(六日)に簡公を弑し、簡公の弟の驁を君主に擁立した。これが平公である。
そして、田恒は宰相になった。
二 柄
君主を弑したかどで諸侯に誅伐された大臣は、数多い。
それゆえ、田恒は、
――誅されてはかなわん。
と、懼れ、斉がかつて魯と衛から奪い取った地を返還し、
晋と盟約し、呉や楚に使者を遣るなど、国際的な調和をはかった。
このころ、晋は六卿とよばれる大臣どうしが君主をないがしろにしてたがいに権勢を競いあい、
魯は三桓氏が君主をないがしろにして国政を壟断するなど、
他国においても状況が類似していたせいか、田恒をとがめる国などなかった。
それをよいことに、田恒は内政に力をいれ、論功行賞をおこない、人民と和合し、斉国を安定させた。
さらに、田恒は、
「恩賞は人民が喜びますので、君がみずからなさいませ。
刑罰は人民が嫌がりますので、臣がやらせていただきます」
と、平公に申し出て、みずから憎まれ役を買ってでた。
「ほほう、よいのか」
と、平公はうれしそうな表情を浮かべてその申し出を容れた。
――これで、吏民は田恒を嫌い、自分に親しみをみせるようになる。
平公は、そうおもったかもしれない。
ところが、人びとは刑罰を受けるのを畏れ、田恒の顔色をうかがうようになった。
五年が経つと、斉の政はみな田恒に帰した。
田恒は晏氏や鮑氏ならびに有力な公族などの政敵を誅し、山東半島の東半分を自領にした。
これは、平公の直轄地よりも広大なものであった。
こうして田恒は斉の実質的な君主になった、といってよいであろう。
田斉のあけぼの
田恒は、国じゅうから身の丈七尺(約一六一センチメートル)以上の女人を
百人以上もかき集めて後宮にいれた。
近い将来、子孫が斉の君主になる、という確信が、かれにはあったのであろう。
当時においては、押し出しが為政者にとって重要な要素であった。
それゆえ、田恒は子孫に斉の「顔」として長軀を求めたのであろう。
(さりながら、孟嘗君田文が短軀であったと伝えられるのは、皮肉なことである。)
子孫繁栄のためか、かれは子作りに勤しみ、亡くなったときには、七十余人もの男子がいたという。
田恒が世を去っても、田氏の権勢はもはや揺るぎないものとなっていた。
田氏が斉の真の国君になったのは、曽孫の田和の代である。
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