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中国史人物伝

一旦緩急 文帝に直諫し、景帝から頼られた俠士 袁盎(爰盎)(前漢)(1) 重名

漢王朝をひらいた劉邦は、游俠を基盤に勢力をのばし、項羽を倒して天下を取った。

その影響か、漢初に游俠が盛んになり、貴族は游俠を喜び、好んで食客を養った。

その嚆矢となったのが、季布や、

袁盎(爰盎)(あざなは絲)(?-前148)

であった。

袁盎には気骨があり、寬厚の長者と称された文帝が相手でも直諫を憚らず、

つぎの景帝からもご意見番として頼られた。

袁盎はその性格ゆえ皇帝に重んじられたが、

かれがこの世を去ったのもまたその性格ゆえであった。

中国史人物伝シリーズ

季布(1) (2)

目次

社稷の臣

袁盎の父は楚人で、もと群盗であったが、安陵(恵帝の陵)へ徙った。
呂太后が称制をしていたとき、袁盎は呂禄の舎人(家臣)になった。
紀元前一八〇年に呂太后が崩じると、呂禄が周勃に誅されて、呂氏は族滅した。
周勃ら大臣が文帝を擁立すると、袁盎は兄袁噲の保任で郎中(侍従)となった。
丞相(首相)になった周勃は、朝廷から退出するときに趨りでて、いかにも得意げであった。
文帝の擁立に際して揚げた多大な功績を笠に着てのふるまいであろう。
そんな周勃にたいし、文帝も恭しく接していた。
――これでは、どちらが皇帝かわからん。
そのようすを苦々しくみていた袁盎は、文帝の御前に進みでて、
「丞相のことを、どうおおもいですか」
と、たずねた。
「社稷の臣である」
文帝がそう返すと、袁盎は首を横にふり、
「絳侯(周勃)はいわゆる功臣でございまして、社稷の臣ではございません」
と、即座に否定し、つづけてつぎのように進言した。
「社稷の臣は、君主と存亡をともにするものでございます。呂后のとき、
呂氏が政権をにぎって各地の王になり、劉氏(漢の皇室)は帯のように細く絶えようとしておりました。
このとき、絳侯は太尉となり、兵権を握っておりながら、政道を正すことができませんでした。
呂太后が崩じると、大臣らがともに謀って呂氏を誅しました。
絳侯は兵を率い、たまたまうまくいっただけですから、いわゆる功臣でございまして、
社稷の臣ではございません。
絳侯には陛下に驕るけはいがみられ、陛下は謙譲なされておいでですが、
これでは君臣の礼が失われてしまい、陛下のためによろしくございません」
その後、周勃が参朝すると、文帝は威厳をつくろうようになり、周勃は文帝を畏敬するようになった。
周勃は、袁盎が文帝に入れ知恵をしたことを知ると、
「われはなんじの兄と親しくしておるのに、弟のなんじがわれを毀ろうとは――」
と、詰ってきた。だが、袁盎はついに謝らなかった。
その後、周勃が丞相を免じられ、領国に就くと、
「周勃は謀叛を企んでおります」
という上書があった。
周勃は召しだされ、請室(牢屋)に繋がれた。
諸公がたれも周勃のためにとりなそうとしなかったが、袁盎だけは、
「絳侯には、謀叛の意思などございません。いま謀叛するくらいなら、呂氏を誅したときにできたでしょう」
と、弁護した。
そのおかげもあり、周勃は釈放された。
以後、周勃は袁盎と親しく交わった。

重 名

このころ、劉氏以外の異姓の王は除かれていたが、
こんどは、劉氏一族の王侯が中央政府にとって目障りになってきた。
劉邦の末子で、文帝の弟でもある淮南王の劉長は、紀元前一七七年に審食其を殺すなど、ひどく驕っていた。
「諸侯がひどく驕れば、きっと患えが生じましょう。領地を削るべきです」
袁盎がそう進言したが、文帝は許さなかった。
それをよいことに劉長は増長し、文帝を無視する態度をとるようになった。
紀元前一七四年、文帝は劉長に謀叛の疑いありとして、領地を没収のうえ、蜀へ流すことにした。
このとき、中郎将(宮中警護官長)であった袁盎が、
「陛下はひごろ淮南王を驕らせるばかりで、とがめられなかったので、こうなってしまったのです。
それをいまにわかに摧折なさろうとしておいでですが、淮南王は剛情な方でございますゆえ、
行路で死なれることがあれば、陛下は弟殺しの名がついてしまいますぞ」
と、諫めたが、文帝は、
「われは長を苦しめてやり、反省したらもとにもどしてやるだけじゃ」
と、いい、聴きいれなかった。
はたして、劉長は蜀への途次で病死してしまった。
訃報に接し、文帝は食事もとらず、ひどく哭き哀しんだ。
袁盎は参内し、頓首して、強諫しなかった罪を請うた。
「公の言を用いなかったばかりに、こうなってしもうた」
「おこってしまったことを悔いてもしかたございません。
陛下にはすぐれたおこないが三つございます。こたびのことで、陛下の名を毀つことはございません」
「三つとは、なんじゃ」
「陛下が代におられましたころ、太后が三年も病に罹られました。
陛下は夜も寝ずに看病なされ、湯薬は陛下が毒味してからでなければお進めになりませんでした。
あの曹参(孔子の弟子で、孝行で有名)でさえおこないにくいことをなされたのです。
また陛下は、呂氏を滅ぼした大臣たちが政権を独占していたところに、
わずか六乗の伝車(駅馬車)で代から乗りこまれました。孟賁や夏育の勇も陛下には及びません。
陛下は代邸にはいられてから、天子になることを、西面して三たび、南面して二たび辞退されました。
あの許由も一度しか辞退しませんでしたから、陛下は許由より四たびも多く辞退なされたのです。
陛下が淮南王をお遷しあそばされたのは、これにより王の御心を苦しめ、過ちを改めさせようとしてのこと。
病死なされたのは、有司(役人)の宿衛に粗漏があったからにございます」
袁盎がそう言上すると、文帝も気が楽になった。
これにより、袁盎の名は朝廷で重みを増した。

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