古代中国版厨子王 人買いに売られたが、皇后になった姉の恩恵を受けた外戚 竇広国(竇少君)(前漢)
姉弟は母と離され、山椒大夫に売られ、酷使された。
姉は、わが身を殺して弟を逃がす。
やがて弟は一国の領主にまで出世し、山椒太夫を殺して姉の仇を報じ、別れた母と再会する。
森鴎外の『山椒大夫』で知られる安寿と厨子王の話は、今なお人びとの心を打つ。
厨子王のような流離出世譚は、古代中国の史書にもみられる。
そのひとつが、前漢文帝の竇皇后の弟
竇広国(あざなは少君)(?-前151)
の話である。
中国史人物伝シリーズ
目次
姉との別れ
竇少君(竇広国)は趙の清河郡観津県の出身で、
兄の竇長君(『史記索隠』によれば、名は建)と
姉(西晋の皇甫謐の『列女伝』によれば、あざなは猗房)がいた。
『三輔決録』の注によると、かれらの父は、秦末の混乱を避けて身を隠し、釣りをして生計を立てていた。
竇少君も、ものごころがつくまえから苦しい家計をたすけた。
あるとき、姉とともに桑の葉を採りにいった。
高いところにある葉をとろうと手をのばしたところ、足をすべらせて、木から落ちて腰を打った。
「大丈夫」
という声ともに、姉が竇少君のところにかけよってきた。
ふたりは、顔をみあわせて笑った。
その後、父が釣りの最中に溺死してしまい、暮らしぶりはいっそう苦しくなった。
そんななか、姉が後宮で仕えることになった。
――姉上が、いなくなる。
竇少君は、子どもごころにそう覚り、胸が張り裂けそうになった。
出立のとき、竇少君は伝舎(宿駅の旅館)まで姉を見送った。
姉は竇少君の髪を洗ってくれ、ご飯を食べさせてくれてから去っていった。
――もう二度と会えない。
そうおもうと、竇少君はやるせないきもちでいっぱいになった。
占 形
竇少君は、四、五歳のころ、人さらいにさらわれて、他家に売られた。
竇少君はなかなか違う環境になじめず、
――なにゆえこのようなめにあわねばならんのか。
と、家僕にまで身をやつしたおのれの境遇を憾んだ。
――もう少し早く生まれていれば。
戦乱の世であれば、おのれの才覚で身を立てることもできたであろうが、
漢が天下を統一したいまとなっては、そんな奇術のようなことはできなくなってしまった。
竇少君は短いあいだにつぎつぎと人買いに売られ、十余もの家を転々として宜陽に至り、
ようやく落ち着くことができた。
そこでは、主人のために山に入り、炭を焼いていた。
ある夜のこと、崖の下で百余人とともに寝ていたら、突然崖が崩れてみな圧死してしまい、
竇少君だけが死を免れた。
竇少君はいのちびろいしたことに安堵するとともに、
――なにゆえわれひとりだけが生かされたのか。
と、気になり、おのれの将来を卜ってみた。
――数日のうちに侯になるであろう。
あまりにも現実と乖離した占形に、竇少君はおもわず息を吞んだ。
皇后冊立
文帝元年(紀元前一七九年)、竇少君は、主人に従って都長安へいった。
はじめてみる都は、なにやら華やいでみえたが、竇少君は、
――自分が田舎者だからであろう。
くらいにしかおもっていなかった。
「皇后さまが、立てられたそうじゃ」
主人が都人士の話を拾ってきて、従者に話した。
どうやら、都が華やいでみえたのは、そのせいであるらしい。
「どなたがなられたのですか」
「竇氏とおっしゃるそうじゃ」
「ご出身はどこなのですか」
「観津らしい」
「えっ」
竇少君は、おもわず声をあげた。
幼童のころに家を離れたとはいえ、竇少君はおのれの出身地と姓を憶えていた。
――もしや、姉上ではあるまいか。
竇少君はこみあげる姉への思慕の念を抑えることができず、
上書して、自分が皇后の弟であることをみずから申し出た。
すると、竇少君は文帝のお召しを受けた。
再 会
竇少君は、文帝に謁見した。
文帝の横にいる女人が、かれにやさしいまなざしをむけてくれているような気がした。
竇皇后である。
「事情を詳しく話してもらえまいか」
文帝の諮問に、竇少君が桑の木から落ちたことなど、姉との思い出を憶えているかぎり陳べたてたところ、
「そんなこともありましたね」
と、竇皇后があいづちをうってくれた。
竇少君の発言は、いずれも竇皇后の記憶と符合していた。
「ほかに憶えていることはあるか」
「姉が西へゆかれたとき、われと伝舎(宿駅の旅館)で別れました。
姉はわれの髪を洗ってくださり、ご飯を食べさせてくれてからゆかれました」
「おおっ」
竇皇后は竇少君を抱いて泣き、侍坐した左右の者らもみな、もらい泣きした。
謙 慎
竇少君は、文帝から手厚い恩賜を受け、長安に邸を賜った。
兄の竇長君は、竇皇后が立てられたときに、すでに長安に移っていた。
ふたりは、外戚として朝廷で重んじられるようになった。
呂氏の専横に苦しめられた権臣の周勃や灌嬰らは、
「われらの命運は、死なないかぎり、このふたりにかかっている。
ふたりは微賤の出であるから、よい師傅を択んでやり、呂氏のようにならぬようにせねば」
と、語りあい、節行ある長者を選び、ふたりといっしょにおらせた。
そのため、竇少君は謙虚な君子になり、富貴になっても驕慢にならなかった。
鼎 位
朝臣になった竇少君は、広国という諱をもった。
――竇広国は、賢明で節行がある。
いつしかそのような評判が立つようになった。
そんな竇広国に信頼をよせた文帝は、文帝後二年(紀元前一六二年)に、丞相(首相)の張蒼を罷免すると、
――竇広国を、丞相にしたい。
と、おもった。
それまでの丞相は、楚漢戦争を経験した建国の功臣が務めてきた。
漢が天下を統一してから四十年が経ち、武功よりも治世の才を重んじる過渡期にさしかかった。
このとき、竇広国は四十歳代であったとおぼしい。
歴代の丞相からすれば、格段に壮い。
才能に齢など関係ない。
とはいえ、春秋に富む人物に政治をまかせて、もし蹉跌をきたそうものなら、
余生は過ごしにくいものになるであろう。
文帝は、それほどまでに竇広国を愛していたがゆえに、
「おそらく天下のものは、わしが私情で広国を起用したとおもうであろう」
と、思い直し、断念せざるをえなかった。
むろん、この判断は、人びとの脳裡に呂氏の専横の記憶がまだ鮮明に残っており、
外戚の擡頭への抵抗があったことも決め手になったのはいうまでもない。
見方を変えれば、文帝が英明であったがゆえに、竇広国は鼎位に昇りそこなった、といえなくはない。
五年後、文帝が亡くなり、景帝が立つと、竇広国は章武侯に封じられ、一万余戸を食んだ。
景帝の代にあっても太后の弟として重んじられたかれは、景帝六年(紀元前一五一年)に亡くなった。
後漢初期の群雄竇融は、竇少君の七世の孫であるとされる。
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