不惜身命 不屈の闘志で苦難を乗り越えた盲目の高僧 鑑真(唐)(1) 江淮の化主
鑑真(688~763)
については、
何度も日本への渡航を試み、失明しながらも渡日を果たした中国の高僧
くらいの認識しかない、という人が少なくないのではなかろうか。
鑑真の日本での事績は知られているが、中国においてはどうであったのか。
中国史人物伝シリーズ
目次
出 家
鑑真は揚州江陽県の出身で、戦国時代の説客淳干髠の後裔であると伝えられる。
父は、揚州大雲寺の智満禅師に学んでいた居士(在家信者)であった。
その影響で、鑑真は幼童のころ、よく父に連れられて大雲寺を訪れた。
大雲寺は、揚州にだけあった寺ではない。
ときの皇帝は、中国史上唯一の女帝則天武后であった。
かの女は仏教を崇敬し、州ごとに官寺を建立するよう命じた。
こうして建てられた官寺は、みな大雲寺とよばれた。
当時、天下には四百余州あったというから、大雲寺もそれと同数置かれたことになる。
日本で天平十三年(七四一年)に、聖武天皇の詔命により、諸国に建立された国分寺は、その模倣である。
長安元年(七〇一年)、十四歳になった鑑真は、
いつものように父に連れられて詣でた大雲寺で仏像をみて心を打たれ、
「出家いたしとうございます」
と、願いでた。
「奇なり」
父はそう応じ、許してくれた。
くしくもこの年、天下の諸州で僧を得度させるよう詔があった。
こうして、鑑真は智満禅師について出家し、沙弥となり、大雲寺に住みこんで修行した。
沙弥はいわゆる見習いの小僧で、剃髪しているが、正式な僧ではないので、十戒のみを守ればよかった。
授 戒
鑑真は、出家した後、龍興寺へ移り住んだ。そこには、
「授戒の主」
と、称された名僧道岸禅師がいる。
道岸のもとで律の研究に打ち込んだ鑑真は、神龍元年(七〇五年)、十八歳のときに菩薩戒を受けた。
菩薩戒とは、修行者が遵守すべき戒律で、
不殺生(生き物を殺してはならない)
不偸盗(盗みを働いてはならない)
不邪婬(邪な性行為をしてはならない)
不妄語(噓をついてはならない)
不飲酒(酒を飲んではならない)
という「五戒」をはじめ、数十もの戒律からなる。
このころ、中宗皇帝は宮殿に奉迎した仏舎利を供養するため、天下の高僧を招請していた。
道岸が招請されると、鑑真も師に随って上京し、遊学することになった。
景龍元年(七〇七年)、二十歳になった鑑真は、東京(洛陽)を経て西京(長安)にはいると、
道岸の紹介で実際寺に住み、高僧弘景律師についた。
弘景は天台宗の第一人者で、荊州の南泉寺で天台学を学んでいたが、
中宗から招請されて上京し、実際寺に住んでいた。
仏舎利の供養を終えた翌年三月二十八日、鑑真は二十一歳の若さで実際寺に登壇し、
弘景律師より具足戒を受け、比丘(正式な僧)となった。
具足戒は比丘が遵守すべき戒律で、二百五十あったとされる。
その授戒式は、
三師七証
といい、
戒和尚、羯磨師、教授師の三師と、証明師七名以上という少なくとも十人の比丘によっておこなわれる。
鑑真の授戒には、弘景が和尚、道岸が教授師、華厳宗を大成させた法蔵が尊証師をつとめるなど、
高僧が名をつらねた。
江淮の化主
遊学中、鑑真は、弘景から天台学を学んだほか、
三蔵(経蔵、律蔵、論蔵)の学究に励んだり、洛陽と長安の高僧を訪ね、律学の教えを受けたりした。
さらに、仏教建築、仏教芸術、医学、薬学なども学んだらしい。
開元元年(七一三年)、鑑真は遊学を終えて揚州へ帰り、大明寺に住み、
二十六歳ではやくも戒律の講義をおこなった。
その後、戒律の講義を百三十回開いた鑑真は、揚州を中心に寺を建てて仏像を造ったり、
写経をしたりして仏教活動に精力をかたむけたかたわら、貧民や病人を救済するなど積徳に励んだ。
鑑真が戒を授けた弟子は四万人を超え、四十歳を過ぎたころには、戒律の大師として天下にその名がきこえ、
「准南江左に浄持戒律の者、鑑真独り秀でて倫なし」
と、評され、
「江淮の化主」
と、仰がれた。
そんな鑑真ですら、そのころ唐の土を踏んだ二人の日本僧に
運命を大きく変えられてしまおうとは、おもってもみなかったであろう。
栄叡と普照
使 命
開元二十一年(七三三年)、日本からある使命を受けた二人の僧が唐の土を踏んだ。
栄叡と普照である。
「授戒ができる高僧を招聘せよ」
という聖武天皇からの勅命を受け、
二人は、洛陽で留学僧として学ぶかたわら、日本に戒律を伝えてくれる僧を探した。
七年が経った。
「他国から唐へ来て、九年たっても帰国しない者は唐の戸籍に編入される」
という唐律の規定がある。
唐の戸籍にはいってしまえば、日本へ戒師を招くことができなくなる。
それゆえ、二人は帰国を企て、翌年には渡海の準備をはじめた。
そのころ、知己であった僧から、
「日本に、渡りましょう」
と、承諾を得ることができた。
西京(長安)の大安国寺の僧道抗である(大安国寺なる名称の寺院も、当時各地にあった)。
ほかに長安の僧澄観、洛陽の僧徳清、朝鮮の僧如海の三人も日本へゆくことを承諾し、
日本からの留学僧玄朗と玄法も同行することになった。
こうして、三師七証に必要な数の比丘を確保することができた。
それでも、まだ問題があった。
唐律では、人民の海外渡航を禁じていたのである。
したがって、道抗らが日本へ渡るとすれば、密航するしかない。
李林甫の智慧
「どうじゃろう、李林甫さまのお知恵をお借りしてみては」
道抗からそう勧められ、二人は宰相の李林甫に面会することができた。
道抗は、李林甫の兄李林宗の家僧であった。それゆえ、李林甫に取りつぐことができたのである。
二人の願いをきいて、
「禁制を破るのを、助けるわけにはまいらぬが……」
と、頭をかかえた李林甫であったが、ややあって、
「どうじゃろう、天台山国清寺へ御仏を奉納するというのは」
と、提案し、天台山参詣を承認した公文書を発行してもらった。
むろん船に乗って日本へむかうわけであるが、
失敗し、大陸に戻された際にとがめられないようはからってくれたのである。
さらに、李林甫は、揚州の倉曹参軍事(水運をつかさどる官)である甥の李湊に、
「日本僧らが乗る渡海用の船をつくってやるように」
と、命じた書簡をしたためてくれた。
天宝元年(七四二年)十月、栄叡、普照および道抗らは、船で揚州にむかった。
「日本へいってくれる僧を、もう何人かくわえられないだろうか」
そのような意見が、船中でたれからともなく出された。すると、道抗が、
「大明寺におられる師に相談してみよう」
と、提案した。
道抗の師が、鑑真であった。
シェアする