女性の時代のさきがけ 猛虎を率い息子の仇に報いた女将軍 呂母(漢新)
斉は東方の大国であり、戦国時代までは栄えていた。
斉が秦に滅ぼされた後、山東半島から南は反乱の巣窟となり、治安が悪化していった。
赤眉から義和団まで、この地で起こった乱は多数挙げられよう。
その嚆矢となった
呂母
は、数百万の資産を有した金持ちで、
県宰(県知事)に息子を殺されたことを恨み、財を散じて俠客や少年を集めた。
かれらは当時の社会からはみ出していた存在であり、任俠的な習俗をもっていた。
かれらが呂母に加担したのは、かの女に同情したこともあるが、
生活苦と飢饉に耐えきれなくなったことが背景にあった。
自身の決起が王莽の新王朝を滅ぼす端緒になろうとは、
呂母自身おもってもみなかったであろう。
中国史人物伝シリーズ
目次
時代背景
前漢の武帝期以降、大土地所有が発展し、有力者が私有地を拡大する一方、
従来の所有者であった農民が没落した。
さらに、貨幣経済の行き詰まりが追い打ちをかけ、生活が苦しくなった。
土地を失った農民は、大土地所有者の小作人や奴婢(奴隷)になるしかなかった。
そんななか、漢から帝位を簒奪し、新王朝を建てた王莽は儒教を重んじ、
太古の理想の世に復そうと、土地の私有を禁じるなどの復古的な改革をおこなった。
ところが、王莽の改革は、時代の流れに逆行してしまい、混乱を招いた。
日本では弥生時代中期にあたるこの時期、地球は寒冷化のただ中にあり、農業収穫は減少傾向にあった。
そこへ黄河の決壊による洪水や干ばつなどで飢饉がおこり、農民たちは生活苦にあえいでいた。
人民の困窮をよそに、王莽は豪華な宮殿をつくり、豪奢な暮らしを楽しむありさまであった。
呂母の乱
残 暴
天鳳元年(一四年)、琅邪郡海曲県の游徼(警察官)であった呂育が軽微な罪を犯した。
ふつうであれば、かれの過誤は論われるようなものではなかったらしい。
しかし、新の法は煩瑣であったようで、
「この罪は重い。死刑じゃ」
と、県宰(県知事)から判じられ、呂育は処刑されてしまった。
「なんでそんなことで殺されるのか――」
呂育の母である呂母は、息子の死を悼むとともに、県宰がした理不尽を嘆き、哭いた。
――この恨み、晴らさずにおくべきか。
このおもいを胸に、呂母はひそかに俠客を集めはじめた。
かの女の家は造り酒屋で、資産が数百万あった。
かの女はそれを切り崩して上等な醇酒を醸し、衣服や刀剣を買い集めた。
「おかん、酒ちょうだい」
少年らがそういって店にやってくると、呂母は、
「あいよ」
と、嫌な顔ひとつせずにつけでかれらに酒を出してあげ、貧しそうな者をみれば、
「これ、もっておゆき」
と、気前よく衣裳を貸してあげた。
猛 虎
数年が経つと、財が尽きてしまった。
「われらに償わせてもらえまいか」
少年らがそう申し出ると、呂母は滂沱と涙を流し、
「あんたらをもてなしたんは、もうけようおもうたんやない。
法を枉げてわが子を殺した県宰に、恨みを晴らしたいだけなんや。
あんたらはこれを哀れにおもうてくれるやろか」
と、本心を吐露した。
「壮なり――」
少年ら口ぐちにそういって、
「よっしゃ、県宰なんか、いてもうたろうやんか」
と、呂母に加担を申し出た。
呂母に恩を感じた俠客や少年は、瞬く間に数百人集まり、
「猛虎」
と、号した。
「そんなにぎょうさん、ここでは養いきれへんわ」
呂母は、かれらを率いて海上の島へ移った。
勢力はさらに膨らみ、数千人に達した。
「わらわは、将軍じゃ」
呂母はみずからそう称し、
「わが子の恨みを晴らすのは、いまぞ――」
と、号令をかけ、俠客や少年を率いて海上を発ち、海曲を攻めた。
天鳳四年(一七年)のことである。
この集団は半島に上陸し、さしたる抵抗を受けずに海曲へ到ると、県城を攻め破り、県宰を捕えてしまった。
「どうかお赦しを――」
県吏らが叩頭して県宰の命乞いをしてきた。しかし、呂母は、
「わが子が犯した罪は、死罪になるようなもんやあらなんだ。せやかて、県宰に殺されてもうたんや。
殺人は死罪になるんは、わかってるやろ。なんで命乞いなんかするんや」
と、はねつけ、県宰を斬り、
「あんたの無念、晴らしてやったで」
と、呂育の墓に県宰の首を祭り、海上へ去った。
女性の時代
呂母の乱の翌年、山東で飢饉がひろがり、赤眉とよばれる農民集団が決起した。
農民反乱は鎮まるどころか各地で群発し、王莽の新王朝を滅ぼすにいたった。
その後、混乱した天下を統一した光武帝(劉秀)は、漢王朝の復活を掲げ、
王莽が定めた制度を廃して前漢のものに復し、民生を安定させる政策をうった。
それでも、天下の動揺を鎮めるのは容易ではなかった。
呂母の乱から二十三年が経った建武十六年(四〇年)に、現在のベトナムに当たる交阯郡で、
徴側と徴弐の姉妹が叛乱を起こし、馬援に鎮圧されるまで三年間独立を得た。
呂母といい、徴姉妹といい、前漢末から後漢にかけては、女性の力が大きくなったといえようか。
邪馬台国の女王卑弥呼があらわれる二百年ほど前のことである。
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