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中国史人物伝

国を愛し、節義を貫いた古武士 慶鄭(春秋 晋)(1) 韓原の戦い


――武士道と云うは死ぬ事と見付けたり(『葉隠』)。

主君のためなら死も覚悟すべし、という武士道を体現したような人物が、古代中国にもいた。

そのひとりが、

慶鄭 (?-前645)

であった。

武勇に優れたかれが仕えた恵公(文公重耳の弟)は、冷酷非道であった。

君主への献身を貫かんとするかれがそんな暗君に仕えたのは、

皮肉な巡り合わせとしかいいようがない。

剛毅なかれは、愚眛な君主を嘲弄しつつ、最後までおのれを貫き通した。

中国史人物伝シリーズ


目次

汎舟の役

晋の恵公元年(紀元前六五〇年)、驪姫の乱で国外へ亡命していた晋の公子夷吾が帰国して、君主となった。
これが、恵公である。
恵公は亡命中に領地の割譲を約束し、秦の援護を引き出した。
しかし、国君になると、地を惜しみ、約束を反故にした。
その後、晋は二年続けて飢饉に遭った。
そこで、秦に糴(かいよね)を申し入れた。
秦はそれに応じ、晋に穀物を送った。
穀物を積んだ舟が、秦の首都雍から、渭水、河水(黄河)を経て汾水に出て
晋の都である絳まで途切れることなく続いた。
人びとは、これを、
汎舟の役
と、呼んだ。

忘 恩

天災は交互に起こるものであるらしく、翌年には秦が飢饉に遭った。
秦が、晋に糴を申し入れてきた。
「穀物を送ってやれ」
恵公が表情を固くしながらそう命じると、間髪を入れずに、
「約束の地を与えずに糴を与えるのは、怨みを少なくしないどころか寇を強くするだけです。
与えないのがよいでしょう」
と、虢射という大夫が、異見を差しはさんだ。恵公は、
――わが意を得たり。
と、いわんばかりの笑みを浮かべて、
「その通りじゃ」
と、大きくうなずきながらいった。
すると、恵公に迎合したのか、群臣から虢射に同調する意見があいついだ。
――恩を仇で返すようなことをして、恥ずかしくないのか。
慶鄭は、怒りを押し殺しつつ、
「なりません」
と、するどく声をあげた。
満座の目が、慶鄭に注がれた。
「恩に背き、災いを幸いとすれば、人民に見棄てられます。身近な者でも讎としましょう。
ましてや怨敵であればなおさらでしょう。
すでに地を欲張って、その地から得た果実を愛しみ、善行を忘れて恩徳に背けば、
われであっても必ず攻撃するでしょう。与えなければ、秦は必ず晋を攻撃いたします」
慶鄭は、よどみなくそう発言した。
正論である。しかし、よこしまな主従の心には染みなかったらしい。
「なんじの知ったことではない」
恵公は煩わしげに慶鄭を叱りつけ、秦に穀物を送らなかった。
約束を守らず、受けた恩を仇で返すような君主を戴いて一番迷惑するのは民衆なのであるが、
かれらは汎舟の役で秦に恩を感じており、恵公から心を離した。

韓原の戦い

吉 卜

恵公六年(紀元前六四五年)秋、秦軍が晋に侵攻してきた。
「こしゃくな、返り討ちにしてくれん」
恵公は怒り、秦軍を迎え撃ったが、敵の鋭鋒にたじろぎ防戦一方となり、三戦三敗した末、韓原に陣を布いた。
恵公は、布陣を終えると、慶鄭を呼び、
「敵が深くまで攻め込んできた。いかがいたそう」
と、諮うた。しかし、慶鄭は、
「君がそうさせたのです。もはやわれの知るところではございません。
虢射にでもお訊きになられてはいかがですか」
と、皮肉めいた返事をした。
恵公は、慶鄭の返答に不快をかくさず、
「車右はたれがよいか、占え」
と、筮史に命じた。
兵車には、通常三人が乗る。
兵車の中央に御者が乗り、その左に主が乗って弓矢を使うのであるが、戦闘が開始すると、
主と御者が場所を入れ替わり、主が中央に乗って兵車を御し、御者が左に乗って矢を射る。
車右は兵車の右に乗り、戈や剣などの白兵を使って戦い、主を護衛する勇士である。
特に、国君の車右は国中一の勇士とされ、それに択ばれるのは、武人にとって大変名誉とされた。
「慶鄭が、吉です」
筮史の応えに、恵公は、
「きゃつは不遜でいかん」
と、いい、家僕徒を車右にした。

軍 令

つぎに恵公は、自分が乗る兵車に、鄭国産の小駟という馬を繋いだ。
――危ないかな。
それをみた慶鄭は、黙っておられず、
「昔から、大事には必ず国産の馬に乗る慣わしになっております。
その地に生まれたのでその地の人心を知っており、その調教訓練に慣れており、道も知っております。
それゆえ、御者の意のままに動かないことはないのです。
ところが、君はいま外国産の馬に乗り、戦場に出ようとなされておいでです。
戦場で驚き懼れると気が変わり、御者の意と違う動きをいたしましょう。
気の乱れが盛んになると、血のめぐりが盛んになり、ふくれあがった血脈が沸きたってまいります。
そうなると、外見は強そうでも、内は精力が尽き果て、自由に進退できず、君はきっと後悔なさるでしょう」
と、翻意を促したが、恵公はもはや聴く耳をもたない。
恵公は、戦いのまえにつぎのような軍令を発した。
 隊列を乱し軍令を犯せば、死刑に処す。
 将が捕えられたのに顔面に傷がなければ、死刑に処す。
 偽りをいって衆人を誤らせれば、死刑に処す。
将士は、これをきいて顔をみあわせたであろう。
これで国の存亡をかけた戦いに臨もうというのであるから、もはや狂気の沙汰としかいいようがない。

吉を棄てる

恵公六年(紀元前六四五年)九月壬戌(十三日)、秦軍が、秋風を切り裂くように進撃を開始した。
これを迎え撃とうと晋軍も前進した。
喊声が轟き、馬蹄が大地を揺るがし、砂塵が濛濛と巻きあがった。
兵数は、晋軍の方が多い。
そのため、晋軍が優位に戦いを進めた。
「進めや――」
その勢いに乗るべく前進した恵公の兵車を牽いた馬が、濘(泥)中に嵌ってしまい、進めなくなってしまった。
そこに、慶鄭の兵車が通りかかった。
「鄭――」
恵公は大声で慶鄭を呼び、
「われを乗せよ」
と、命じた。しかし、慶鄭は恵公に相想を尽かしているので、
「善を忘れて恩徳に背き、諫言を聴かずに吉卜までお棄てになられたのですから、
もとから敗戦をお望みになられておられたようなものです。それなのに、いまさら何をおっしゃるのですか。
われの車は、君が避難なさるのにはもったいのうございます」
と、拒み、去っていった。

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