Blog ブログ

Blog

HOME//ブログ//荘王に適切な諫言を呈した楚の良心 申叔時(春秋 楚)

中国史人物伝

荘王に適切な諫言を呈した楚の良心 申叔時(春秋 楚)

歴代の楚王で最高とされる荘王は、活発な軍事を展開し、

26もの国を併呑し、三千里の地を開いたといわれる。

荘王を輔佐した重臣は、名宰相の孫叔敖や申公巫臣ら錚々たる顔ぶれであった。

申叔時もそのなかのひとりであり、つねに適切な諫言を呈し、荘王を晦惑に陥らせなかった。

荘王の死後に引退した後も、申叔時の人望は衰えず、楚の良心でありつづけた。

中国史人物伝シリーズ

荘王を輔佐した名宰相 孫叔敖(蔿艾猟)

目次

申 公

申叔時は、申公(申邑の長官)であった。
申は楚の北辺の邑で、もとはひとつの国であったから、大邑であり、
北からの攻撃を防ぐ最前線にある軍事上の要地でもある。
それだけに、凡庸な人物では申公は務まらない。
しかも歴代の楚王で最高の名君といわれる荘王からそれだけの要職を任されるほどであるから、
相当な器量の持ち主であったことは間違いなかろう。
申叔時と同時期に活躍した屈巫(巫臣)も、申公であった。
両者が申公を務めた時期の先後はわからない。
屈巫は、楚の武王の子屈瑕を始祖とする名家である屈氏の出身であった。
申叔時も楚の王家の岐れではないか、と推察されるが、その出自は不明である。

陳の興亡

滅 亡

荘王十五年(紀元前五九九年)、申叔時は荘王の命で斉へ使いした。
その使命は、何であったのか。
もしかすると、晋との会戦に備え、斉を味方に引き入れようと交渉したのかもしれない。
その最中、
「王が、陳を滅ぼされました」
と、知らされた。
――早まったことを――。
申叔時は帰国して荘王に復命したが、首尾だけを伝えて退出した。
ほどなく荘王からの使者がきて、
「寡人(諸侯の一人称)は無道をおこなって君を殺した者を討伐して殺戮し、みな賀辞を述べてくれている。
なんじだけが寡人に賀辞を述べないのは、なにゆえか」
と、責められた。
――しめた。
申叔時は、内心ほくそえんだであろう。

復 活

申叔時は、さっそく荘王に拝謁し、
「君を殺した罪は、大きゅうございます。これを討伐して殺戮するのは、義にかなってございます」
と、言上した。
当たり前だ、といわんばかりに、荘王はあごをしゃくった。賀辞を急かしているのであろう。
「ところで、こういう話をご存知でしょうか」
「何じゃ」
「牛を牽いて他人の田を踏み荒らせば、田地の持ち主が牛を奪う、という話です」
勘のよい荘王は、いわんとすることを察したような様子をみせたが、申叔時は話を続けた。
「牛を牽いて他人の田を踏み荒らすのは、まことに罪深いことではございますが、
その牛を奪うのは、もっと重い罪でございます。
諸侯が楚に従ったのは、罪有る者を討伐するためでございました。
それなのに、いま陳を楚の県にしたのは、他人の富を貪ることになります。
討伐を名目に諸侯を招集しておきながら、貪婪に富をむさぼって帰すというのは、
よくないことではございますまいか」
「まことになんじの申す通りじゃ。われは、そんな話を聞いたことがなかった。
ならば、陳を返せばよかろうか」
「よろしいですとも。これぞ、他人の懐から取って後で与える、ということでございます」
他人から奪い取った物であっても、返せば罪に問われない、というのは、現在の窃盗とは結論が異なるが、
最終的な外観だけで判断し、途中経過まで問題にしないのであろう。
「あいわかった。陳を復すことにしよう」
荘王はそう応じ、陳を復活させた。
諫言を呈する際には、相手の器量を測り、手法を択ぶ必要がある。
申叔時がまっすぐに諌止の言を揚げずに、たとえ話を使ったため、
かえって聡明な荘王を悔悟させ、聴き容れてもらえたのである。

持久戦

荘王十九年(紀元前五九五年)、荘王は宋に侵攻し、国都を包囲した。
この戦いで、申叔時は荘王の御者を務めた。
包囲が八か月に及び、荘王が、
「これ以上つづけても、詮ないことじゃ」
と、いって引き揚げようとすると、
「郊外に家を築き、耕作をすれば、宋は従いましょう」
と、申叔時が進言した。
――楚軍は、持久戦にもちこもうとしている。
と、宋人を懼れさせようとしたのである。
荘王がその通りにすると、宋の右師(宰相)の華元が大胆にも夜陰に紛れて楚軍の陣に忍び込み、
将軍の子反を脅し、和睦を迫った。
荘王は華元の言動に感心し、宋との和睦を許した。
これが、荘王の最後の遠征になった。

太子の教育

申叔時が、太子審の傅(教育係)に任じられた士亹から、
「どのようにすればよろしいでしょうか」
と、方針についてたずねられ、つぎのように応えた。
「春秋(歴史)を教え、善を勧め悪を抑えさせます。
世系を教え、明徳の王が顕彰され、暗愚な王が廃されることを知らせます。
詩を教えて先聖の徳を明らかにし、礼を教えて上下の秩序を知らせ、音楽を教えて穢れを洗い流し、
法令を教えて百官の職掌を理解させます。
このようにしても教えに従わず、おこないが改まらないようでしたら、諷諫し、賢人に補佐させます。
十分教えても従わなければ、もう人ではありません。太子が即位なされたら、あなたは身を退かれなさい。
みずから引退すれば敬われますが、さもなければ危ういでしょう」
楚は中原諸国から南蛮と蔑まれてきたが、申叔時の教育論をみるかぎり、
中華の文明をすっかり取りこんでしまっていることが明らかである。
かれ自身、外交経験を重ねるうちに、中原の思想が身についたのかもしれない。
荘王が亡くなり、太子審すなわち共王が即位すると、申叔時は致仕(引退)し、申で隠棲した。

平和同盟

楚と晋の二大国のあいだに和平の気運が高まり、
共王十二年(紀元前五七九年)に、華元の周旋で両国が和平の盟いをおこなった。
だが、和平は長く続かなかった。
三年後、楚は鄭が許を伐ったことに怒り、鄭を攻めた。
これは和平にそむく行為であったが、司馬の子反が、
「敵に対しては、利があれば進むものだ。盟いなど、何の役に立とうものか」
と、押し切った。
「子反は、きっと禍を免れまい。信義をおこなって礼を守り、礼をおこなって身を保庇するものだ。
信義と礼がないのであれば、禍を免れようと欲してもどうしようもなかろうよ」
申叔時は、子反の発言を伝え聞くと、そういって嘆いた。

鄢陵の戦い

共王十六年(紀元前五七五年)、楚は鄭に領地を割譲して盟下にいれた。
鄭が晋に攻められると、楚は鄭に援軍を出した。
こうなると、晋との戦いを避けることはできない。
楚軍が申を通り過ぎたとき、子反が申叔時のもとを訪ね、
「師はそれ如何」
と、戦いの勝敗を問うてきた。
申叔時は、つぎのように答えた。
「徳、刑、詳、義、礼、信は、戦いに大事なものです。
徳によって人民に恵みを施し、刑によって邪を正し、詳によって神に仕え、義によって利を得るようにし、
礼によって時宜に適うようにふるまい、信によって物を守るのです」
詳はここでは祥と同意で、吉凶とおもえばよい。
申叔時は、さらにことばをつづけた。
「民の暮らしがよくなれば徳が正しくなり、使うものが便利になれば諸事が節度を保ち、
時宜に適うことで物事が成就します。上下が和睦し、挙措が礼に悖らない。
求めるものがすべてかない、それぞれが極限を知っている。
それゆえ、万民が暮らせるのは、天子の教化のおかげである、と『詩』にいうのです。
そうすれば、神は福を降し、災害も起こらなくなり、民の暮らしもよくなり、和同して為政者に従い、
戦死者が出ても欠けた部分を補うようになる。これが戦いに勝つ方法です。
いま、楚は人民を棄て、諸国との友好を絶っております。神聖な盟いを穢して、盟いのことばを守らない。
農閑期でもないのに兵を動かし、人民を疲弊させてまでして望みをかなえようとしている。
人民は信義を知らず、進んでも退いても罪になるのではないかと恐れ、行く末を恤えている。
これでたれが生命を投げ出して戦うのですか。勉めなさい。もうお目にかかることはないでしょう」
申叔時は、子反に痛烈な批判を浴びせた。
中原の思想に基づいたその発言は、子反の心に染みなかったらしい。
晋との戦いに敗れた子反は、敗戦の責任を押しつけられて自殺させられた。

SHARE
シェアする
[addtoany]

ブログ一覧